【明治から大正にかけて活動された、お坊さんの文章を紹介しています。現代のお経ではないかと思っています。「宗祖の皮髄」より】
選擇(せんちゃく)の道詠
(2)衆生の至誠心に就いて
道詠 往生は世に易(やす)けれど皆人の、誠の心なくてこそせね (法然上人)
①往(ゆ)き易(やす)き所以(ゆえん)・・・②至誠と虚仮(こけ)・・・③弥陀は至誠を選 取す・・・④至誠は内容を要す・・・⑤至誠の三階・・・⑥天性的の至誠・・・⑦理性的至誠・・・⑧霊性的至誠・・・
☆ ①往き易き所以(ゆえん)
至誠は本来弥陀と衆生との根本的の因縁に依って、自然に合致すべき性なり。弥陀は自性(じしょう)の本体を以って我とし、衆生もと自性を根底としながら、迷妄虚仮を我と思うて六道に流転す。
真実を体とする父と、虚妄(こもう)を我とする衆生とは、しばらく父子相背(あいそむ)くに似たれども、虚妄我の奥底に潜める本心は、如来の聖意と同性相吸引するの勢能(ちから)を有するを以って、実には本覚の父の許に往き易(やす)し。
しかるに衆生一たび本覚に背き、虚妄我に執(とら)はれ、虚栄虚偽自ら非なるを覚知せざるを以って往く人少なし。大師が「念仏して往生するは法爾(ほうに)の理なり」と、の給(たま)いしも、弥陀と衆生との本心に本来合致すべき性を有すればなり。
☆ ②至誠〔まごころ〕と虚仮(こけ)〔いつわり〕
すべて人には至誠と虚仮との二性を具有す。これを仏教にては仏性と煩悩と云い、儒教にては道心と人心と云い、キリスト教にては霊と肉との心と云う。俗に言う本心と形気の心なり。
至誠は真実心にて衆生本有(ほんぬ)の仏性、俗に言う天より稟(う)けたる性なり。虚仮は煩悩、即ち人欲の私より生じたる迷妄なり。至誠は例えば純粋なる水の如し、虚仮は心水に混(こん)ずる有毒菌の如し。地中の深き底より湧き出ずる水は混淆物少なけれども、地殻(ちこく)に近き処の水は種々の汚物混じて、中には種々の黴菌(ばいきん)を含有するやも知れず。
人の天性は水の如く、人欲の私より虚偽を生ず。虚偽は肉欲我欲の動機より名誉利欲の念を生じ、その利害上種々の事情を生じて、恰も有毒菌の如し。この黴菌が心水の中に生活する時は、すべての罪悪苦悩および禍害(さいがい)を起こす、これ一切の心の病の源なり。衆生天性の心水中(しんすいちゅう)には虚偽の有毒菌を発生す、これ煩悩なり。
この中(うち)に種々の毒種あり、いわく忿恨覆脳嫉諂(ふんこんふくのうしつてん)〔忿=いかり。恨=うらみ。覆=かくす。脳=なやむ。嫉=ねたみ。諂=へつらい〕の類、これらの働きは即ち災禍(わざわい)に悩ましめ、世々流転の業を造る種子(たね)を醸(かも)す。人の心水を清めて純正澄浄(じゅんせいちょうじょう)なれば真実心なり。
この真実を根底として佛(ほとけ)の萬徳一切の善根を充たしむれば成仏す。至誠より生ずる功徳にあらざれば終局の功果(こうか)を望み難し。一の心が虚仮雑毒を基礎として煩悩より業を造り、業に依って苦を受け、竟(つい)に解脱の期あるべからず。至誠を根底として菩提心を起こす者は仏心なれば、佛子佛行の帰するところ必ず無上正覚(むじょうしょうがく)を成(じょう)ずべし。
☆ ③弥陀は至誠を選取(せんしゅ)す
一切諸仏の智慧と慈悲とを集(あつ)め給いし処の弥陀は悉く一切衆生を摂取して仏道を成就せしめんとす。為に選擇摂取(せんちゃくせっしゅ)の法を以って本願となし給う。選擇摂取とは何ぞや。曰く、有(あら)ゆる一切国土の中(うち)の麁(そ)〔劣ったもの〕を捨て妙〔勝れたもの〕を選らび、衆生の中の悪を捨て善を取り給う。
要を取って云えば、一切の無明迷妄虚偽(こぎ)邪悪苦澁(くじゅう)害毒等の一切の悪をば悉く捨て、而して真善微妙光明等の一切の善なることは悉く選び取り、至真至妙の浄佛国土を顕わし、而して暗黒の惑(わく)業苦(ごっく)の中に迷える衆生を摂取して、清浄光明の方面に転住(てんじゅう)せしめんとの目的なり。
一切の悪業を捨て一切の善業を選び取る、之を選擇という。かくして顕われたる勝世界を浄佛国土と為す。然るに選擇より顕わし給いし浄土には、いかにして往生するや。曰くこれ亦選擇の法に由らざるべからず。然らば、何者をか捨て何者をか選取するや。曰く往生を楽(ねが)うに虚仮心は捨てられ真實心は選び取らるるなり。
その選取されたる者が真善美の選擇の浄土に生まれ、捨てられし人は捨てられし者の麁悪(そあく)の方にして、永く迷はざるべからざる訳(わけ)なり。現在の心がすでに真実心となれるところの人は、選ばれて弥陀心光中に在って歩々向上し、虚仮の人は肉の暗黒に惑(まど)いて焦って悪道に堕ち行くなり。
次回へ
最近のコメント