学問・資格

2009年11月 7日 (土)

 衆生の至誠心に就いて(終)

 【明治から大正にかけて活動されたお坊さんの文章を紹介しています。現代のお経ではないかと思っています】

 ☆ ⑧霊性的至誠

 霊性は人類精神中最高部位の部に属す。如来の霊を感じ佛知見に依って啓示せらるゝのはこの仏性なり。佛弟子及び菩薩佛等が最勝の霊たる所以は、この性能(ちから)の能(よ)く発達して働くが為なり。この性は無限の大霊に接触し霊界の清浄微妙を感受し、如来の相好色身を観じ、浄土の衆宝荘厳等を見る機関なり。

 教祖世尊が菩提樹下の金剛座上にて朗然(ろうねん)として大悟せられしは、この性(しょう)が円満に開発あらせられしを云うのみ。キリストがヨルダン河の上にて聖霊を感じたるも、この性が開けたるを意味するものなり。

 心霊界の太陽と仰ぐ無量光如来の光が、浄満月に反映したる釈尊の正覚(しょうがく)は、この性に於いてす。教祖はこの霊光を以って一切の人類を導きて永遠の光明に入らしめ玉へり。永劫の大霊光(おおみひかり)は常に照臨し給えども、霊性いまだ開けざる人は、これに感触すること能(あた)はず。日光常に照らせども盲人は見るべからざるが如し。

 しかし前に述べたる天性の人は、誠というも未定にて、理性の人は意識的の理が判るだけ真実(まこと)も為し、また虚仮をも為す。霊性の人は純誠にして虚仮なることなし。予は至誠の体を顕わす為にかく区別したるも、天性と理性との人は往生不可というにはあらず。たとへ殊に天性といへども霊性伏在して至誠なきにあらず。天性の人といへども信仰に入って光明に接せば霊性開くことを得、いわんや理性を開きし人に於いてをや。

 至誠の体は霊性によりて顕わる、この霊性の内容を充実せしめ、実質を形成せんには如来を信じ如来を愛し、浄(きよ)き霊国(みくに)に生ぜんと欲する、信と愛と欲とを以って、至誠の内容を充実せしむべし。

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2009年9月28日 (月)

衆生の至誠心に就いて つづき

 【明治から大正にかけて活動されたお坊さんの文章を紹介しています。現代のお経ではないかと思っています。「宗祖の皮髄」(皮と髄・・・すべて)より。】

 ☆ ⑦理性的の至誠

 眼より額(ひたい)の中部までを理性とせば、人間は他の動物より殊にこの部分の発達し居るを見る。人類が高等動物に比較して肉体機関の軟弱なるに拘わらず、他の動物を制伏(せいふく)して最高の位置を占むる所以は、精神と理性とが特殊に発達しおるに依るなり。理性は自然界の一切の理を認識し弁別し考察し工夫し推理す。これを有するものは人間のみの特長なり。

 彼の理化を応用して蒸気や電気を発明し、またこれをすべての器械にも応用しうるに至りしは、悉く理性より発明されしに非ずや。また天文地理等の自然現象の事物を理解し、百科の学説を立てて万物の原理を思弁し、判断し観察して哲学等を弄(もてあそ)び、また一方には常識を以って我と人との社交を為し、道徳倫理を以って秩序を整え、または法律を以って人の義務や権利を正しくす、これ皆理性ある人類にして初めて行はる。

 倫理というも人間が高等なる理性を以って自己の肉体の動物欲を制し、道として守らざるべからざる自己の行為として、規定するが如き人類には赫々たる理性の光を以って動物を制伏す。去りながら人間とても理性を悪用し濫(みだ)したる暁には、天性の人や動物よりも遥かに悪しき且つ恐ろしき働きを為すことあり。

 誠は天命の性として人類に具有すれども、意識的には判然と外面へ顕われず。その性の作(な)す処も誠に契(かな)ふ事と契(かな)わざる事とあり。たとい現に悪しき働きを為さずとも、因縁に随って悪しき方へ発達することを妨げず。すでに理性の働きの中(うち)には、虚仮と真実との両面に意識を働かし、理性自ら悪しき事を為せども、他人の前には隠蔽す。理性に是、虚仮詐欺の働きある所以。至誠(まごころ)の本体は霊性なり。たとへ具有すれども開発せざれば顕わすこと能(あた)わず。

 宗教の目的はこの霊性の開発にあり。いかに学問上仏教に明るく説明は巧みなるも、そは理性に於いて教理を理解するに過ぎず。自然界の一切の事物を識(し)り得らるるは、科学の範囲に於ける理性の働きなり。仏教の目的の対象は心霊界の区域にあり。故に冷静を開く心眼なくんば之を知見すること能(あた)わず。

 実に心霊界は肉眼を以って見る範囲に非(あら)ざれども、心眼を開けば必ずしも見られざるに非(あら)ず。すべて仏陀(ほとけ)の実験〔実際に体験しているという意味〕の説より成(な)れる大乗教の浄佛国土のごときは、霊界なれども心眼を以ってすれば見得(みう)べきなり。いかほど理性の知識を研(みが)くとても霊性の実修なければ、如来諸説の佛身佛土を観見(かんけん)すること不可能なり。

 もし理性の学識を以って霊界の真理を経験し得るならば、教祖釈尊は太子の当時有(あら)ゆる天下の学者を集めて、学問の上に真理を実験〔体験〕すべき方法を講ぜられしならんに、しかも人間の知識も学問も技芸も財實(たから)も、乃至、一切を悉く棄損して山に入りて道を学すること六年、修行を終わり豁然(かつねん)大悟の暁は無上正覚を得て、霊界の全部を正しく実験なされし如きは、霊性開けて見れば宇宙全体、無量光明世界なることを知る。焉(ここ)に至りて従来を省みれば無明の闇深く生死の夢を貪りつつありしを嘆ぜむ。

 自(おのず)から目覚めて而(しこう)して後の世の中の迷いの夢に醒(さ)めざる人を見るとき、實(げ)に哀れ不憫と嘆ぜざるを得ぬ。然らばこの夢中の人を覚醒せしむるには如何せん。寧(むし)ろ諸仏とともに常楽世界に安住するに如かじと思はれしも、一歩進んで観ずれば、一切衆生の生死迷夢のうちにも霊性は失わずこれを開くときは諸仏と異なることなし。

 いざこれよりは一切衆生を度せん哉(かな)とそれより教化(きょうげ)の途(みち)に出で給ふ。我が宗祖、夙(つと)に一切の聖経を学び、深く仏教の奥底を究めしも、これはこれ、ただ学解の分際にして未だ証入の門にあらずと、永年苦心の結果専修念佛の一行を選び、こゝに権門の方便を出で、直入真実の行に入り給う。

 教祖および宗祖、ともに理性に於いては出離の道を得ること能(あた)はざるを悟り、専ら霊性を開くの道に就き給えり。さればこそ霊に活きたる導師として、迷妄暗闇の灯明として衆生を霊界に誘導するを得給いしなり。

 然るに動物の如きはこの理性に於いて欠くるところあるを以って、善悪供に区別することを得ざるを以って、意識的の虚仮あることなければ法律上道徳上善悪の責任なし。ただ理性ある人間にして虚実善悪の責任を負うものとす。

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2009年9月20日 (日)

衆生の至誠心に就いて・・(つづき)

 【明治から大正にかけて活動されたお坊さんの文章を紹介しています。現代のお経ではないかと思っています。(宗祖の皮髄)より】

 ☆ ⑤至誠の三階

 人の精神発達の程度を三階に分かって至誠開発の順序を明かさば、人の精神と云うも心に程度あり。迷いも悟りも善も悪も皆心より出(い)づ。仏教の一心十界説の如く、地獄畜生と成るも人天となるも、また声門(しょうもん)や菩薩となるも心を本とし、心の発達の程度より別(わか)るゝなり。骨相学等に於いては、頭脳を三位にして心の座所を説明す。その頭脳精神の三階説も全体を信ずること能(あた)はざるも、ただしばらくは、便利上精神発達の程度の説明に転用せば、頭脳三階とは、一、天性。二、理性。三、霊性これなり。

 目と耳との位置より下部を天性とし、目と額(ひたい)の中位までとを理性とし、額より上部を霊性とす。天性は人と動物との共通性。理性は人類のみの特性。霊性は神人合一性なり。

 ☆ ⑥天性的の至誠

 これは天然生理的の心理作用を為す部分にて、目を以って視、耳に聞き、鼻に嗅ぎ、舌に味わい身に触れて感覚の作用を為すは、人類も他の動物も共通なり。むしろ彼ら動物の方が遥かに発達したる趣(おもむき)あり。ある獣類は暗きに視、また遠方の音響を聞き、ことに臭覚の敏捷(びんしょう)なる如きは、とても人の及ぶところにあらず。

 また口の働きに於いても口自ら料理し、また彼らの戦闘には牙歯(がし)の武器を天然に具有す。これより考うるも唯、肉体と及び天性の五官の如きは、その発達の程度到底人間の及ぶところにあらず。

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2009年9月15日 (火)

 衆生の至誠心について・・(つづき)

 【明治から大正にかけて活動されたお坊さんの文章を紹介しています(宗祖の皮髄より)。現代のお経ではないかと思っています。(宗祖の皮髄)より】

 ☆ ④至誠は内容を要す

 至誠心(まごころ)は純粋なる天真なる心なり。之は純粋なる水に類すべきもの、清浄なれども至誠心の自性は形式なり。例えば純なる水の淡白は無色無味無臭なる如く、これに馥(かぐ)わしき香りを放ちて咽喉を悦ばす甘露の味の如き飲料に為(せ)んには、それに調合する美味と香料とを要す。

 誠は最も強固なる根底なり、この根底の上に建設したる建築物は傾倒の憂いあることなし。誠は形式にて必ず内容を要すべし。彼の如来の本願に「至心信楽欲生我国、乃至十念若不生者不取正覚」と。されば誠を充実せしむる内容は、弥陀の聖意(みごころ)に相応する信、愛、欲、是なり。

 曰く至心(まごころ)に如来を信じ、至心に如来を愛し、至心に浄土へ生まれんと欲するなり。誠の本体は如来の法身(ほっしん)にして衆生は法身の一分なり。奥底には大法身の連なれる法身なる誠の性を有す。信と愛と欲との内容を充実せしむるは、報身佛の智慧慈悲等の本願力なり。人は誠の性を具有すれども、天然素朴の間は未だ光を顕わさず。

 誠すなわち真實心が全く顕現するは自性天真我として、如来の形式の上に於いて一致する時なり。然れども内容を充実せざれば萬徳円満なる仏(ほとけ)と成ること能(あた)わず。それを充実せしむるは信、愛、欲の信仰と如来の本願力とに依るなり。

 真実と虚仮とは、例えば果實の類に於ける種子が全く熟して、生産作用を生ずるに至れば、誠lの内容も充実し全く種子の資格を具(そな)う。人も仏の子として至誠の上に信楽欲生の心を以って念仏し、業事成弁する時は果実の成熟したる如く、聖(きよ)きに生きる生産作用の功、熟したるなり。ただ虚仮の皮殻(かわ)のみにて核なくんば種子の功を認むこと能(あた)わざるなり。

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2009年8月27日 (木)

衆生の至誠心に就いて

 【明治から大正にかけて活動された、お坊さんの文章を紹介しています。現代のお経ではないかと思っています。「宗祖の皮髄」より】

 選擇(せんちゃく)の道詠

 (2)衆生の至誠心に就いて

 道詠   往生は世に易(やす)けれど皆人の、誠の心なくてこそせね  (法然上人)

   ①往(ゆ)き易(やす)き所以(ゆえん)・・・②至誠と虚仮(こけ)・・・③弥陀は至誠を選   取す・・・④至誠は内容を要す・・・⑤至誠の三階・・・⑥天性的の至誠・・・⑦理性的至誠・・・⑧霊性的至誠・・・

 ☆ ①往き易き所以(ゆえん)

 至誠は本来弥陀と衆生との根本的の因縁に依って、自然に合致すべき性なり。弥陀は自性(じしょう)の本体を以って我とし、衆生もと自性を根底としながら、迷妄虚仮を我と思うて六道に流転す。

 真実を体とする父と、虚妄(こもう)を我とする衆生とは、しばらく父子相背(あいそむ)くに似たれども、虚妄我の奥底に潜める本心は、如来の聖意と同性相吸引するの勢能(ちから)を有するを以って、実には本覚の父の許に往き易(やす)し。

しかるに衆生一たび本覚に背き、虚妄我に執(とら)はれ、虚栄虚偽自ら非なるを覚知せざるを以って往く人少なし。大師が「念仏して往生するは法爾(ほうに)の理なり」と、の給(たま)いしも、弥陀と衆生との本心に本来合致すべき性を有すればなり。

 ☆ ②至誠〔まごころ〕と虚仮(こけ)〔いつわり〕

 すべて人には至誠と虚仮との二性を具有す。これを仏教にては仏性と煩悩と云い、儒教にては道心と人心と云い、キリスト教にては霊と肉との心と云う。俗に言う本心と形気の心なり。

 至誠は真実心にて衆生本有(ほんぬ)の仏性、俗に言う天より稟(う)けたる性なり。虚仮は煩悩、即ち人欲の私より生じたる迷妄なり。至誠は例えば純粋なる水の如し、虚仮は心水に混(こん)ずる有毒菌の如し。地中の深き底より湧き出ずる水は混淆物少なけれども、地殻(ちこく)に近き処の水は種々の汚物混じて、中には種々の黴菌(ばいきん)を含有するやも知れず。

 人の天性は水の如く、人欲の私より虚偽を生ず。虚偽は肉欲我欲の動機より名誉利欲の念を生じ、その利害上種々の事情を生じて、恰も有毒菌の如し。この黴菌が心水の中に生活する時は、すべての罪悪苦悩および禍害(さいがい)を起こす、これ一切の心の病の源なり。衆生天性の心水中(しんすいちゅう)には虚偽の有毒菌を発生す、これ煩悩なり。

 この中(うち)に種々の毒種あり、いわく忿恨覆脳嫉諂(ふんこんふくのうしつてん)〔忿=いかり。恨=うらみ。覆=かくす。脳=なやむ。嫉=ねたみ。諂=へつらい〕の類、これらの働きは即ち災禍(わざわい)に悩ましめ、世々流転の業を造る種子(たね)を醸(かも)す。人の心水を清めて純正澄浄(じゅんせいちょうじょう)なれば真実心なり。

 この真実を根底として佛(ほとけ)の萬徳一切の善根を充たしむれば成仏す。至誠より生ずる功徳にあらざれば終局の功果(こうか)を望み難し。一の心が虚仮雑毒を基礎として煩悩より業を造り、業に依って苦を受け、竟(つい)に解脱の期あるべからず。至誠を根底として菩提心を起こす者は仏心なれば、佛子佛行の帰するところ必ず無上正覚(むじょうしょうがく)を成(じょう)ずべし。

 ☆ ③弥陀は至誠を選取(せんしゅ)す

 一切諸仏の智慧と慈悲とを集(あつ)め給いし処の弥陀は悉く一切衆生を摂取して仏道を成就せしめんとす。為に選擇摂取(せんちゃくせっしゅ)の法を以って本願となし給う。選擇摂取とは何ぞや。曰く、有(あら)ゆる一切国土の中(うち)の麁(そ)〔劣ったもの〕を捨て妙〔勝れたもの〕を選らび、衆生の中の悪を捨て善を取り給う。

 要を取って云えば、一切の無明迷妄虚偽(こぎ)邪悪苦澁(くじゅう)害毒等の一切の悪をば悉く捨て、而して真善微妙光明等の一切の善なることは悉く選び取り、至真至妙の浄佛国土を顕わし、而して暗黒の惑(わく)業苦(ごっく)の中に迷える衆生を摂取して、清浄光明の方面に転住(てんじゅう)せしめんとの目的なり。

 一切の悪業を捨て一切の善業を選び取る、之を選擇という。かくして顕われたる勝世界を浄佛国土と為す。然るに選擇より顕わし給いし浄土には、いかにして往生するや。曰くこれ亦選擇の法に由らざるべからず。然らば、何者をか捨て何者をか選取するや。曰く往生を楽(ねが)うに虚仮心は捨てられ真實心は選び取らるるなり。

 その選取されたる者が真善美の選擇の浄土に生まれ、捨てられし人は捨てられし者の麁悪(そあく)の方にして、永く迷はざるべからざる訳(わけ)なり。現在の心がすでに真実心となれるところの人は、選ばれて弥陀心光中に在って歩々向上し、虚仮の人は肉の暗黒に惑(まど)いて焦って悪道に堕ち行くなり。

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2009年8月21日 (金)

二、選擇(せんちゃく)の道詠。その2

 【明治から大正にかけて活動されたお坊さんの文章を紹介しています。“宗祖の皮髄”から。現代のお経ではないでしょうか】【前回からの続きです】

 ④ 王三昧の故=「仏法に無量の三昧門あり。中(なか)に就いて念仏三昧の王たる所以は、他の一切の三昧は唯、一門のみを掌(つかさど)れども、念仏三昧は一切の三昧を摂して遺(のこ)すこと無し。三世諸仏悉く念仏三昧にて最正覚を成(じょう)ぜり」と般船讃(はんじゅさん)に明(あか)せり。

 ⑤ 直弁(じきべん)の故=往生要集に明せり。「他の一切の行は往生の為にと回向せざれば往生の業とならず。念仏はもと往生の行の故に、別に回向せずとも直ちに弁ずる故に」

 ⑥ 萬機普益(ばんきふやく)の故=集(しゅう)〔これまでのいろんな書物、という意味?〕に「念仏は一切の老少男女共に、行住坐臥、時処諸縁(じしょしょえん)を嫌はずして行ずることをう、最も修し易(やす)きが故に、萬機(ばんき)を摂す」

        ……………………………………………

 ③ 名号は聖種子の故に【前回の☆〔い〕の三義の③です】

 問う、仏教にて佛種子と云うことは、仏性と共に本有(ほんぬ)なるか、将(は)〔もしくは〕た新薫(しんくん)なるか。法華等にも「佛種は縁より生ず」と説けり如何(いかが)。答ふ、唯識等に依れば種子に本有と新薫とあり。本有種子は仏性にて衆生法爾(しゅじょうほうに)として具す。新薫は名言薫習(みょうごんくんじゅう)即ち名言の種子が八識中に伏在して、自体果(じたいか)を生ずる能力なり。

 色心が萬法を現象する生産の起元作用の力、例えば植物の種子に生産の起源作用ある如く、生物の原形質が種子の細胞に入りて種子と為り、一切の枝葉根茎等が嵌め込み式に伏在して縁を待ち、漸々(ぜんぜん)に発展し顕現する如くに、聖種子の名号が衆生の仏心に薫じて、その原形質に一切萬徳が嵌め込み式に伏蔵して、やがて円満に成熟するに及びては、諸仏の果位に至るの徳を具するなり。

 佛種子とは元照(がんしょう)云わく、「問う四字の名号は凡下(ぼんげ)常に聞く、何の勝能ありてか衆善に超過せるや。答佛身は相に非ず果徳は深高(じんこう)なり。嘉名を立てずば妙体を彰(あら)はすこと莫(な)し。十方三世の諸仏皆異名あり。況(いわん)や我が弥陀は名を以って物を摂す。

 是を以って耳に聞き口に誦(じゅ)すれば無辺の聖徳識心に覧入(らんにゅう)し永(なが)く佛種と為り、頓(とみ)に憶劫の重罪を除き無上菩提を獲得す」と、人の本有の性は無上性にて而(しか)も一切の種子を薫習する性能あり。

 若し基督(キリスト)と云う宗教的原形質が薫染すればクリスチャンと為る、若しマホメットの原形質が入ればマホメットが種子と為る。今は衆生の仏性に阿弥陀仏の聖原形質が播下(ばんか)して、頓(やが)て佛子の面目を顕(あら)はす。即ち宗祖はた教祖の如き霊格と為るのも種子にして、是れ我が祖が仏教中に最勝最上の聖種子を選びたる所以なりとす。

                          次回へ

 次回は、選擇(せんちゃく)の道詠の(2)衆生の至誠心に就いて、です。

 

 

 

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2009年8月14日 (金)

二、選擇(せんちゃく)の道詠

 【明治から大正にかけて活動されたお坊さんの文章を紹介しています。‘宗祖の皮髄’より】

 二、選擇(せんちゃく)〔劣るものを避け、すぐれたものを選び取ること〕の道詠

 阿弥陀佛(あみだぶ)と云ふより外(ほか)は津の国の難波(なにわ)の事もあしかりぬべし

 (1) 法と行とに就いて

 宗祖〔法然上人のことです〕は一切経より

    法   名号(最勝の法) ① 名体不離の故(ゆえ)

                    ② 満徳総持の故

                    ③ 聖種子の故

    行   念仏(最易の行) ① 弥陀本願の故

                    ② 父子合意の故

                    ③ 親縁の故

                    ④ 王三昧の故

                    ⑤ 直弁の故

                    ⑥ 萬機普益の故 

 我が祖〔法然上人〕が開宗の標準は他宗の祖師と趣を異にす。伝教大師の台宗に於ける、弘法大師の密教に於ける、何れも入唐して有縁の宗師に就いて伝法相承し、帰朝の後その宗を弘められしが、我が祖は選擇(せんちゃく)的主義を以って開宗せられたり。

 宗祖の選擇の目標とし給ひしは法と行とにあり。法は一切経中にて最勝〔もっともすぐれて〕最上を選び、行は一切行の中(うち)に至易至簡(しいしけん)〔容易、簡単〕を選び給う。故に他師の開宗の年齢に比すれば最も晩年に開宗されたり。

 宗祖は疾(と)〔速やかに、急ぎ〕くに出離の志を発こし、衆多と共に平等一慈の下に得度せんとの念願にて、二十五年間一代の経および一切の章疏(そうしょ)〔意見を述べたもの〕に至るまで悉く研究し比較し、非常なる苦心の結果、漸く導師の観経の疏(しょ)、一心専念乃至順彼佛願故の文に端緒を開き、念仏に過ぎたる行(ぎょう)なきことを確かめて専修一行の宗を開き、後に選擇本願念仏集を述べてその心を明かし給へり。

 ☆〔い〕 法の最勝〔最も勝れている〕なることを述ぶるに三義(さんぎ)あり。即ち、

   ① 名体不離(みょうたいふり)の故・・・ ② 萬徳総持(まんとくそうじ)の故・・・ ③ 聖種子(せいしゅし)の故・・・

 ① 名体不離=談義に「至極(しごく)大乗ノ意(こころ)ハ体(たい)ノ外(ほか)ニ名ナク名ノ外ニ体ナシ」と。弥陀の萬徳悉く名号に摂在(せつざい)する故に、名号を稱(とな)へる時自然に萬徳具(そな)わるなり。また名を稱(しょう)すれば如来の徳が自然と彰(あら)はる。

 二祖は之を喩えを以って述べられたり。「譬えば人の名を呼べばその人を思い出す如く、弥陀の名を呼べば直ちに弥陀を思う」と。例せば太陽と云わば名に就いて太陽を思うが如く、弥陀の名を号(よ)ぶ時即ち弥陀を思う。さればとて口に名を稱するも意(こころ)が弥陀に相応せざれば体(たい)を離れたる名にして實(じつ)はなきなり。

 ② 萬徳総持=選擇集に「弥陀一佛に所有(あらゆる)四智三身十力乃至一切内證外用(ないしょうげゆう)の功徳悉(ことごと)く名号の中(うち)に摂在す」と委(くわ)しくは集(しゅう)の如し。他師の説なれども弘法大師は経を引いて、「阿字十方三世佛、弥字(みじ)一切諸菩薩、陀字八万諸聖教、皆是阿弥陀佛」と釈(しゃく)し、また源信僧都(そうず)は、阿弥陀の三字を法報応(ほっぽうおう)の三身、空仮中の三観(さんがん)、法般解(ほっぱんげ)の三徳等に配せり。名号は萬徳悉く総持するが故に最勝たり。   

 ③ 聖種子=この事は後に説明す。

 ☆〔ろ〕行に就いて念仏を選ぶに、今しばらく念仏が余行(よぎょう)より弥陀に親しき種々の義あることを挙げれば六義あり。即ち、

  ① 弥陀本願の故・・・  ② 父子合意の故・・・  ③ 親縁の故・・・  ④ 王三昧の故・・・ ⑤ )直弁(じきべん)の故・・・  ⑥ 萬機(ばんき)普益の故・・・

 ① 弥陀本願の故=導師の一心専念乃至順彼佛願故の文(もん)、是れ宗祖が諸行の中(うち)に選んで念仏に帰し給ひし所以。

 ② 父子合意の故=佛(ほとけ)は是れ大慈父、我らはその子なり。父が子に対し、子が父に対し、一心に念仏すれば必ず父子合意契合(けいごう)して直調(じきちょう)をうること念仏に過ぎたるはなし。

 ③ 親縁の故=導師の「衆生行を起こし、口に佛(ほとけ)を稱(しょう)すれば佛これを聞き給ひ乃至意(こころ)に佛を念ずれば佛便(ほとけすなはち)之を知り給ひ、衆生佛を憶念すれば佛も衆生を憶念し給ふ、彼此(ひし)の三業相離れず故に親縁と名ずく」と。世間にも親子名を呼び交わすは最も親しみを親密にす。導師が「偏(ひとへ)に念仏の衆生を摂す」と云うは極めて親密の語なり。

              途中ですが次回へつなげます。

     

                            

 

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2009年8月 6日 (木)

永遠に輝く霊的人格

 【明治から大正にかけて活動されたお坊さんの文章を紹介しています。現代のお経ではないかと思ってます】

 【これまでは書籍、「人生の帰趣」と「光明の生活」から少しばかり紹介してきましたが、ちょっと難しいところもあるので、分かりやすい「宗祖の皮髄」を取り上げてみようと思います。宗祖とは法然上人のこと。皮髄とは全体、あるいは全てということのようです】

           ――――――――――――――――――――――

 第一  永遠に輝く霊的人格

 一、  総 説

 永遠に照り輝く我が祖〔法然上人〕の霊的人格を標準として、我曹(われら)〔浄土宗の学僧のこと〕は血脈〔系譜〕を相承(そうしょう)〔法を受け伝えるということ〕せる末裔の本分たる自己の人格を形成せんことを期す。

 さて皮髄(ひずい)とは、宗祖を学ぶ修行の功果として、得道(とくどう)の浅深なる階級とも見るべく、また一面よりは人の身髄を形成する皮肉骨髄の四部に例して、霊的人格を形成する精神上の四分類なり。

 また、感覚と感情と知力と意志との受け持ちを殊にする部分とも言うことを得(う)べし。霊的譜脈〔系譜〕を受くる我らは宗祖のそれを各部〔感覚、感情、知力、意志〕に共に習はざるべからず。身体を形成するには皮肉等の四部〔皮肉骨髄〕具備すべきが如く、精神に於いても四部に亘(わた)りて全備(ぜんび)せんことを要す。

 若しそれ宗教が感情に入り、偏して意志の信仰に欠くる時は、恰(あたか)も肉は豊富なれども骨が不健全なる如く、いずれにしても一方にのみ偏するは病的なり。我が祖の信仰の完全なる如く、我らもまた完全たらんことを期せざるべからず。

 完全なる修養は知情意ともに弥陀に同化せらる。これを総括する者は霊我にして、霊我の人格即ち霊格なり。もし肉体の方より検(けん)すれば、元来宗祖と普通の人類とは異なる所なし。身体を構造する要素に於いても、また構成の形式に於いても、解剖学上はた、生理学上に於いても異点を見出さざるべし。

 然れども宗教的意識の全部に於いては全く大いに異なれり。この宗教的精神に於ける我らは、宗祖の霊的実質を形成せし如くに習わざるべからず。実に宗祖の人格は完全かつ美麗にて間然(かんぜん)〔欠点をとりあげること〕するところあらざるなり。これまさしくその内容は弥陀の光明に依って成熟したる阿摩羅果(あまらか)〔眼、耳、鼻、舌、身、意、末那、阿頼耶、の8識のつぎ、9識のこと。阿摩羅識または真如ともいう〕なればなり。

 果物もすでに成熟する暁には外皮も麗しく肉も美味に、種子(たね)も熟する如く、宗祖の霊的人格の立派なることは一見自(おの)ずから威にうたるる如く、また温容欽慕に耐えざる如く、精神の内なる感情も弥陀(ほとけ)に美化し、豊富にして微妙なる法喜禅悦の妙味を感じつつあるが如し。

 また意志の骨の剛毅なること金剛(こんごう)の如くにして、南都北嶺の大衆の迫害に泰然として動かざるが如き、実に弥陀(ほとけ)に霊化せられたる、我が祖の人格の円満なる如きは、他に比例を見ざる所なり。かくの如き超人的霊格を形成せしめたる者は念仏三昧なり。

 これに依って円熟したる知情意は共に霊的なり。宗祖の霊的要素は弥陀の光明によりて霊化し玉ひしなり。されば弥陀を離れて宗祖の実質を形成せし要素は見出す能はず。宗祖は我らの為に霊的実質を形成する一大要素を見出さんとて、永年に亘りて腐心せられたりき。

 宗教は人の信仰と如来の光明とに依って成立す。衆生に本来仏性なければ宗教何の要もなし。人に仏性あり、煩悩に覆われて顕現すること能(あた)はず。たとえ仏性は具すれども、卵中の鶏のごとく之を孵化するに非(あら)ざれば霊性も活動すること能(あた)はざるなり。

 人の信仰と如来の霊力に依って霊性は顕わるるなり。霊性を顕わして仏に成るのが仏教の目的なれば、宗祖の内容を洩(も)らし玉へる道詠(うた)について今、衆生の心田(しんでん)に仏種子(ほとけだね)を播下(ばんか)するものを選ばん。

 道詠十首

    一、 あみだ佛(ぶ)と云ふより外(ほか)は津の国の、

                   難波(なには)の事もあしかりぬべし

    二、 往生は世に易(やす)けれどに皆人(みなひと)の、

                   誠の心なくてこそせね

    三、 我は唯佛にいつかあふひ草、

                   心のつまにかけぬ日ぞなき

    四、 かりそめの色のゆかりの恋にだに、

                   あふには身をも惜しみやはする

    五、 あみだ佛と心は西にうつせみの、

                   もぬけはてたる声ぞすゞしき

    六、 あみだ佛と申すばかりをつとめにて、

                   浄土の荘厳見るぞうれしき

    七、 あみだ佛に染むる心の色に出(い)でば、

                   秋の梢のたぐひならまし

    八、 月かげのいたらぬ里はなけれども、

                   ながむる人の心にぞすむ

    九、 極楽へつとめてはやくいでたゝば、

                   身のおはりにはまいりつきなん

    十、 生まれてはまづ思ひでん古里に、

                   契りし友のふかき誠を

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2009年7月26日 (日)

 三種の愛に比例して親縁を明す

 【明治から大正にかけて活動されたお坊さんの文章を紹介しています。現代のお経ではないでしょうか】

生物が生理の自然に規定せられて、我と彼との親密なる相愛の関係を示すもの三種あり、この三種の親愛を以って神人合一の親縁(しんねん)を明かさん。一は父子の関係に例し心情の信仰は例えば慈しみの父、愛の母と愛慕する如くに、心霊の為にいと慈愛深き如来を愛慕し奉り。

 二に異性相愛の如く衆生如来を愛楽(あいぎょう)し雲井はるかに霊的憧憬一心に如来を見まく欲しさに恋念する如きは、聖きに胸を焦がし霊(きよ)きに思いを煩わすこと、肉我の異性的の関係なると例せり。但(ただし)大いに異なるは、其の内容に於ける即ち神的霊妙なると、肉の不浄なるとにあるのみ、之には神を恋人のそれの如くに愛し奉る故に親縁なり。

 三に小我大我の関係の親愛。心情の信仰が最終の甚深(じんじん)なる精密なる心情の奥に至っては、神の中に己(おのれ)を投じ、巳(すで)に神秘融合の奥室に至りては小我と大我と調和し、生佛感応、真我の外(ほか)に妄我なく、如来の大なる愛に同化せられ、如来大我の外に我なく如来とは大なる我、また観念我または理想とも云うべく、如来は我を客体化したる我に外ならず、ここに至って宗教的関係の最終の真髄に達せるものと云うべし。

    道詠歌

           まちいづるほのかに山の端(は)ににほふ

                        月見るときはうれしかりけり

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 我が子を愛するミオヤの大悲 その二

 【明治から大正にかけて活動されたお坊さんの文章を紹介しています。現代のお経ではないでしょうか】

 一切衆生は肉体我より見れば衆生の子即ち人の子である。然れども奥底に潜伏して居る仏性から思えば仏の子である。仏性は仏の慈悲に愛育霊化せられざれば霊性は顕道し難し。例えば人類は一切の動物中に最も発達したる理性的動物である。然るにたとい人類の子と雖も幼少の時より人の手に依りて教養薫陶せられざれば言語動作知識等が開発し顕道することが出来ぬと。

 或る人山中に遊猟して野獣に等しき人の子を捕獲す、其の形人類にはあれども匍匐(ほふく)すること獣類の如し。人これに銃を向けるに吼音(ほえるこえ)を発(おこ)して言語なし。竟(つい)に此れを捕獲して家に至れり。後に言語等を教養するに人と同じく発するに至れりと。蓋(けだ)し察するに一婦人が嬰児(あかご)を抱(いだ)きて山中にて猛獣の為に噉(か)まれて、然るに天真の嬰児は獣類敢えて噉まずして之が獣類に養われてありしならんと。

 たとえ人類の子たりとも嬰児は匍匐す。母之を起たしめ歩行せしむ。また言語等も教ゆるが故に自然と言語を操り、ついに自在に意思を弁ずるに至る。若(も)し四圍(しい)〔周囲〕の薫陶なき時は、人間としての言語四威儀〔振る舞い〕等も具備せざるや必せり。人類の子たるも獣類の手に養わしめば、人類としての知識も啓発出来ず。人格も備ふること能(あた)はざるが如く、人仏性を具有するも師友善知識等の法界等流(ほうかいとうる)の仏法に遇い、仏の慈悲光明に摂化せらるゝにあらあざれば仏性顕現し難し。

 衆生の仏性は常に念仏三昧に依りて、如来の恩寵を養成霊化せられざれば霊能顕われ難し。

     道詠歌

           呼ぶ御名(みな)に心の玉もみがゝれて

                       みだの光は映(うつ)ろひにけり

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2009年7月19日 (日)

 我が子を愛するミオヤの大悲 その一

 【明治から大正にかけて活動されたお坊さんの文章を紹介しています。現代のお経ではないでしょうか】

一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)とて、衆生は本覚法身(ほんがくほっしん)より分かれ出たる仏性具有す。仏の性(しょう)はあれども卵の如く、これを暖めて孵化し雛子(ひよこ)と為して終(つい)に鶏の本分が顕はれる如くに、衆生仏性の卵子を暖めて仏性開発霊化するに非ざれば仏性は唯名字のみにて何の功能あらん。

 絶対大慈悲のミオヤは無明の卵の殻の内にある、生死輪廻の迷子(まよいご)を憐れみ、如何にしてか大慈悲の懐の中に一切衆生の仏性の卵子を孵化して、真の佛子の面目を現わさしめんかと、子を憶(おも)うミオヤの慈悲、自(みづか)ら久遠実成(くおんじつじょう)法界自性(ほうかいじしょう)の宮に安(やすん)ずる能(あた)はず、満徳円満の身を謙(へ)り下(くだ)り、迷い子と同じく生死の街(ちまた)に出(い)でて、法蔵菩薩の身を受けて、いかにせば凭(かか)る本覚の自家を迷い出でて、生死の夢を貪る子等をいかにして覚醒(めざめ)しめんと為(す)るも、生死の夢を夢見て自覚できぬ衆生に、本覚の自性に至らしむるは難中の難である。然れども一切衆生悉く仏性の卵を具有す。此れを孵化して真の仏性が開顕する時は、一切は悉く無量光にして無量寿の霊性が顕わるゝ。然れば三世の諸仏と同じく覚ることが得らる。

 爰(ここ)に一切衆生の大慈父たる如来は、三世諸仏慈悲の体にして一切衆生を平等一慈悲の懐に摂(おさ)めて、衆生仏性の卵を暖めて霊性孵化せしむとの本願を発(おこ)し玉へり。是(これ)一切衆生を摂取して成仏せしむる光明なり。

 爰(ここ)に十劫正覚(じっこうしょうがく)の身は、喩へば太陽の光遍く照らして一切の植物や動物を生成養育する如くに如来の大慈悲の光明は、遍く十方世界を照らして衆生の心霊を開発養成し玉ふ。衆生此の大霊の懐に摂(おさめ)らるる時は、仏性の卵子が孵化して真の佛子の面目が顕現す。如来無縁の大慈悲は永(とこ)しへに照らして此れに摂取す。

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2009年7月14日 (火)

如来より衆生に対する愛

 【明治から大正にかけて活動されたお坊さんの文章を紹介しています。現代のお経ではないでしょうか】

 如来は無上の愛を現わさんが為に、法蔵の応身(おうじん)を発(おこ)し、心霊無上の愛を示さんが為に、自己の肉によるの一切の愛する処の妻子珍宝をすてて、国を棄て位(くらい)を捨て、権威と栄耀とを破れ靴を脱するが如くにしたるは何の為ぞや。一切の萬類(ばんるい)に対する無上の愛が一切をして、心霊の栄光と霊福とを得せしめんとする為にあらずや。

 彼は甚深(じんじん)悲壮の心情の禁じがたきより『一切の恐懼(きょうく)【恐れること】に為に大安(だいあん)を作(な)さん、之がためにはたとい身をもろもろの苦毒の中(うち)に止(お)くとも我が行(ぎょう)は精進にして忍んで終(つ)いに悔いじ』と。心情の切なるを知らざるべからず。吾ら如き自己の罪悪によりて、亡(ほろ)びに赴(おもむ)くものをして救済の道を立てんが為に、思いを凝らし神(こころ)を煩わしたることいくばくぞや。

 たとひ大海の如きも一人升量(いちにんしょうりょう)して之を盡(つく)すに非(あらざ)るよりは、寧(むし)ろ死すとも止(や)まじとの精進と忍辱(にんにく)とだに屈せざれば、いつか遂げざることやあると。無盡(むじん)の大願を以って衆生を摂(せっ)す。四十八願を発(おこ)し一々の請願は衆生の為と。

 無量永劫に無辺の身を更(か)へて六度萬行を以って衆生を済度す。而して因(いん)圓(まど)かに果(か)満(まん)じて正覚(しょうかく)を成(じょう)す。方便法身(ほうべんほっしん)の十劫正覚(じっこうしょうがく)の身即ち是なり。是(これ)本来、法性法身(ほうしょうほっしん)に具する所の満徳を衆生に与えんが為に、十方に発現するを方便法身(ほうべんほっしん)と名ずく。我ら衆生の信仰心と交感し関係を結んで、たやすく解脱し霊化せんが為の方便なり。

 勝応身(しょうおうじん)には一分の欠点なき満徳円満が相好にあらはれて、吾人の信仰に感応しては解脱霊化の功を施し給ふのである。

 この法蔵因位(ほうぞういんい)の難行苦行は、悉く我らが為になされしものと深く感ずる時、また一の欠点なき満徳円満の霊応に対してはいかゞに感ずるであらう。その因位苦難のことどもを思うときは、吾人如き罪悪深重なるものがいかなる苦厄にあうとも忍ばれぬこlとはあらじ。また慈悲の相好は愛の現(あら)はれなる事をおもはゞ、自ずから身心融液(しんじんゆうえき)して歓喜踴耀(かんきゆやく)するにいたらむ。

 道詠歌

     すゝみゆく道の遠さもおぼゝえじ

               高峰(たかね)の月の見(み)まくほしさに

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2009年6月24日 (水)

愛楽(あいぎょう)

 【明治から大正にかけて活動されたお坊さんの文章を紹介しています。現代のお経ではないかと思えてなりません】

 至心に深く愛楽(あいぎょう)す。如来無上の恩寵(おんちょう)をもて一切を愛護霊育(あいごれいいく)し給ふ。故に我らも至心に如来を愛慕し奉る。

 宗教上の精髄は感情にあり。いわゆる自己の罪悪を嫌忌(けんき)し、厭悪(えんお)し如来の恩寵を欽慕愛恋し、妙色相好を憧憬して寤寐(ごび)【起きている時も寝ているときも】に忘るる事、能(あた)はず、神霊の尊貌(みすがた)を思う時、自ずから新鮮の活気を生じ、生死の苦を厭(いと)ひ法性常楽(ほっしょうじょうらく)を欣(ねが)ひ神秘の内容に不可思議の妙容(みすがた)を感じ、主我の妄執を脱して真我の内に融合し罪悪垢穢(ざいあくくえ)の状態より解脱して、聖霊態に融入(ゆうにゅう)せんと欲する如きものは悉(ことごと)く感情にあり。

      ――――――――――――――――――――――――――――

 私見。

 このお坊さんは、宗教の精髄は感情にあり。とおっしゃっていますが、この言葉に接すると、不遜ですが‘わが意を得たり’といった気持ちになるのです。

 以前、「なぜ人を殺してはいけないか」といった問いが、マスコミで話題になり、今でも若い人たちはこの問題について、しばしば取り上げていて、さまざまな意見が出されています。

 そして、その意見に接すると本当に十人十色、さまざまな意見が飛び交い、ひとつの答えを導き出すことの難しさを感じています。

 なぜいろんな答えが、返ってくるのでしょう。それは‘理屈’で答えを出そうとしているからだと思うのです。言い換えると、倫理、あるいは道徳、といった観点から見ようとしているから。

 社会規範として、考えようとすると、個人個人で、育った環境が違い、体験を通しての知識も異なり、また性格や能力にも左右されるので、答えがひとつにまとめられない、ということではないでしょうか。

 なぜ人々は‘感情’をおろそかにするのでしょう。忘れているのでしょう。

 たぶん現代人は利口になりすぎたのです。

 人の感情には、他を思いやる心‘やさしさ’があり、また、自分を苦しめたあいつは憎い、といった気持ちや、そこから起こる残酷な心があります。

 そして、人を殺すという行為は、その残酷な心がするのであり、他者を思いやる心‘良心’がするのではない、と言う事は誰もが承知しているのです。

 でもそこのところを見落としている、という事に気づいてほしいのです。

 善と悪。

 神や仏は人の好ましいほうの心の象徴、煩悩あるいは悪魔は人の好ましくないほうの心の象徴。

 となれば、人を殺すという行為は、好ましくない心の為せる事なので、悪いことである、と言って良いかと思います。

 哲学される人には不満でしょうけど。

 また冒頭に紹介したお坊さんの「宗教上の精髄は感情にあり」という言葉は、もっともっと広い意味で仰られているのでしょうが、日ごろ‘感情’について思うことがあり、述べてみたくなりました。

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2009年6月16日 (火)

親縁の中心は愛 その2

 【明治から大正にかけて活動されたお坊さんの文章を紹介しています】

 宗教的中心たる心情に神秘的神人合一、生佛感応し小我大我の冥合せるより来たりし霊愛の如きは、肉我の間に於いて見るよりはいかにそれ親密なるぞ。宗教中心真髄たる心情の心念に於いて最も神人の関係を親密にして、彼我一体の観念たらしむるものは愛なりとす。

 吾人無始より已来(このかた)無明に覆(おほ)われて、罪に滅びて空しく貧里(ひんり)に苦しみ生死にさまよひぬること、全く自性天真の父母に離れし故なれば、真に父母を恋念の情に勝(た)へず。また霊(きよ)き生命に入らんには、大なる愛の表れたる舎那円満(しゃなえんまん)の月の容(かお)を見まほしく、宛(さなが)ら恋人のそれに類比せり。肉我に迷ひて未だかって真の大我を自ら覚知せず、生死に流転して転々休止することなし。

 生死を超絶せる処の大我に、帰命融合を求めて絶対的の大安立(だいあんりゅう)を得んとす。此の親縁は如来の内容たる大なる慈愛によりて、衆生の感情を融合し感化し、人の肉血までを愛化し霊(きよ)き生活ならしむ。

 唯、知力の理論にのみ如来を認むるのみにしては、未だ活ける信仰にあらず。精神生活と雖(いへど)も此の肉血を離れて活動すべきにあらず。常に如来の慈愛を憶念して久しうするときは、此の血気をして悉(ことごと)く霊化し、而(しか)して麗しき生活を得せしむ。譬(たと)へば香器の中に香を容るゝ時、香器また燻ずるが如く。人、常に如来の大慈愛を憶念する時は、内容自ずから佛化せさるべけんや。此れを親縁と云ふ。

 道詠歌

       すゝみゆく道の遠さもおぼゝえじ

                 高峰(たかね)の月の見まくほしさに

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2009年6月12日 (金)

親縁の中心は愛

 【明治から大正にかけて活動されたお坊さんの文章を紹介しています。現代のお経ではないでしょうか。・・・「光明の生活」より】

 宗教的関係の中心真髄は人の心情にありとせば、人の心情中に於いて全く我と彼とを同一視し、また生佛一体の観念たらしむるものはいかなるものぞ。そは人の心情の愛なるもの之なり。世に極端なる利己主義を主張するもの謂(おも)へらく、すべて生物は本能的に利己主義なる者、己(おのれ)を愛するを外(ほか)にして他を愛するは本能にあらずと。 

 吾人は謂(おも)ふ。そは極端なる利己主義にあらずや。人類には本能の発達の結果、一種不可思議の感情が、人の精神中心に伏在するにあらずや。其れは我と彼とを同一視し、自と他とをして異身同体の如きまでに、利害苦楽を共に感ぜしむるなり。そは何ぞや、人の心情の中心に在りて彼我一体ならしむる愛なるものこれなり。

 愛てふものは最も強き感情の糸をもて我と彼とを繋ぐ。普通はこの感情の最も強きものは親と子の間に、また恋人の間に於いて然りとす。生理的に最も相愛の親密なるは母と子の関係なり。之は本(もと)、母が子に於けるは自己より分出したるものなれば、子に対する同憂同喜は即ち愛てふ血肉を分けたる母と子の自然なり。

 また生理の自然に規定せられたる異性の親愛は最も親密なり。然るに肉体に於ける母子(おやこ)また恋人の間に於いて見るよりは、尚一層、幽微に深邃(しんすい)【おくがふかい】にして彼我の親密なる愛、存す。そは宗教的感情、神人の関係、即ち人が如来に対する霊の恋愛なるものに於いて発見すべし。    

                                   つづく。

 道詠歌

      のぼりゆくつかれも今は覚(おぼ)ほへじ

                  高ねの月を見まくほしさに

                                     次回へ

            

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2009年6月10日 (水)

親愛その2

 【現代のお経とも思われる文章を紹介しています。明治から大正にかけて活動されたお坊さんの言葉です。「光明の生活」より】【前回の続きです】

 麗らかなる春の和(やわらか)き温(あたたか)き霊気に霊酔せば、いつしか憤怒(いかり)、恨戻(うらみ)、嫉忌(ねたみ)、復讐(あたがえし)【ふくしゅう】、などのすべて害他的の悪しき動機は麻痺して、而(しか)して温和、同情、博愛、同喜などのすべての愛他の心情(こころ)起こるならむ。若し人、一たびこの大なる慈愛の浩気(こうき)に呼吸せる霊(きよ)き生活を経験せんか。この霊気を離れたる妖霧魔塵(ようむまじん)の萬丈(まんじょう)なる大気の生息は、実に耐えざる所なり。

 親縁(しんねん)とは如来の無限なる慈愛より、衆生の感情等の内容に加被(かび)し給(たま)う勢力(ちから)にして、人の方より如来を深く愛楽(あいぎょう)し奉(たてまつ)る信念に相応し、融合する本質なり。如来は大慈愛の親縁を以って衆生に加え給ひ、人は愛楽(あいぎょう)を以ってこれを念持し、衆生仏を憶念すれば仏もまた衆生を憶念し給ふ。

 如来を愛し上(たてまつ)れば、如来もまた衆生を愛寵(あいちょう)し給(たま)ふ。相愛親和の相互する所に、不可思議的神秘の融合を感ず。吾人が感情の信念に霊的愛慕し上(たてまつ)る如来の恩容(おんよう)を観じ奉(たてまつ)れば、いと麗しく妙(た)へに、いと勝(すぐ)れて美に威厳、殊(こと)に魏(たか)く相好独り勝(すぐ)れさせ給いて、信念のあるところに表現し給ふは何ぞや。

 如来の勝応身(しょうおうじん)が相好円満にして、いと美しきを示し給ふは、衆生に対する大なる愛の権化にましまさずや。是、大慈悲の表現にましまさずや。之に対する衆生の宗教衝動は霊的憧憬とし、神的恋愛とし之を葵仰(きこう)【仰ぎ敬う】し之を憶念して止(や)まず。斯(かゝ)るを感情の信念とす。

 如来はただ無縁の慈悲を以って遍(あまね)く法界に充満し、而して衆生の精神の内容なる心情に融合し、而(しか)して神秘的に融合し、神人合一の妙機に歓天喜地の感応を人の心情に与え給ひて、世に吹き荒(すさ)む八風の為にも心を動揺せず、いかなる境遇(ばあい)に臨んでも泰然として心広く、体肝(たいゆたか)に自然に幸福ならしむるは、人の情操に与えらるゝ恩寵なり。

 道詠歌

       こゝをぞとさやかに今は見へねども

                 月のかたにぞあくがれにける

                        次回へ

 

 

 

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2009年6月 8日 (月)

親愛 その1

 【明治から大正にかけて活動されたお坊さんの文章を紹介しています。現代のお経ではないかと思っています】

 如来心光の三霊能の中に於いて親縁とは大なる愛、即ち大慈悲心と衆生の感情的信念との感応融合によりて、心情を美化するの霊能なり。即ち太陽の熱線に比例すべきものとす。

 この大慈悲の霊熱に感応する人の心情は平和、歓喜、妙楽、安穏、感佩(かんぱい)【ありがたく心に思うこと】等のすべての心理上の、最も優美なる高尚なる微妙(みみょう)なる甚深(じんしん)なる言うべからざる不可思議的感情の状態なり。

 例えば若し太陽の能力より起こす所の温熱なからんか【なかったとしたならば】、地上の有機物が生存し能(あた)わざると同じく、如来大慈悲の霊力に依らざれば、人の聖(きよ)き生命は生存すべきものにあらず。大なる愛の光は温和柔軟(おんわにゅうなん)にして、能(よ)く人の心霊を生息せしむ。新鮮なる活気は聖(きよ)きに呼吸せしめ、三昧の妙味に霊の生命は保存せらる。無限の妙楽と自然の歓喜とは如来の泉より湧く。 

 されば人は如何(いか)なる嶮(けわ)しき艱難(かんなん)の坂、困苦の峠に臨んでも、または失敗の谷に陥(お)ち、失意の抗(あな)に陥(おち)いるも、暖かなる慈愛の光は照らさぬ隅(くま)なく、平和と慰藉(いしゃ)【同情して慰める】とは何(いず)れの時にか与え給(たま)はざらむ。

 如来の慈愛の温熱(あたたかみ)は人をして、寒慄(みぶるい)せしむる畏怖(おそれ)にも憂悲苦悩(しんぱいなやみ)のなかにも、その心情(こころ)を融和(とか)して而(しか)して、安穏と歓喜とに美化せしむ。

 道詠歌

       朧夜(おぼろよ)のこゝとさやかに見へねども

                     月のかたにぞあくがるゝかな

                              次回へ続けます。

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2009年6月 7日 (日)

仏心は大慈悲

 【現代のお経では、とひそかに思っているお坊さんの文章(光明の生活)を紹介しています。明治から大正にかけて活動されました】

 如来は大慈愛の化現(けげん)、全体愛にまします。経に仏心を観る者は亦(また)仏心を見る。仏心とは大慈悲是(これ)なりと。仏心の相好円満、無尽の光明全く愛ならざるはなし。

 故に大愛の権化たる仏(ほとけ)の相好を瞻(みあげ)るときは、満腔の慈愛にうたれて仏心の大慈悲なることも思わざるをえぬ。如来が全体愛を持って光明常に我らに注ぎて愛化し玉ふ。此の慈愛に育まれたる我らは、満腔の愛を以って如来を憶念せざるをえぬ。

       ―――――――――――――――――――――――――――

 【仏のはたらきを象徴した十二光佛を此のお坊さんは、歌にしています。その三つは前回、前々回で紹介していますので、後の九佛の歌を紹介しておきます】

 無對光(むたいこう)

    たくらぶるものこそなけれいと尊(たか)き

               わがみほとけの照らす光に

 炎王光 

    いかばかり罪の薪(たきぎ)はつもるとも

                焼きつくすなり弥陀の光は

 清浄光

    見るにつけ聞くにつけても染(そ)みやすき

                  心をきよき光とぞする

 歓喜光

    歓びの光にあはゞとことはに

                のどけき春の心地こそすれ

 知慧光

    みほとけのさとき光に照らしみよ

                みな実相のすがたなりけり

 不断光

    断(た)えなくば海水(わだつみ)さへもくみつくす

                  何ごとかそもならざらめやは

 難思光

    目にみえぬ思ひにもまた及ばぬは

                 光にふれし心なりけり

 無稱光(むしょうこう)

    うれしともまた楽しとも言の葉に

                 及ばぬ光にあふ心地かな

 超日月光

    月も日も及ばぬ人のこころまで

                 照らすほとけの光なりけり

                           次回へ

             

    

 

 

 

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三縁(さんえん)

 【明治から大正にかけて活動されたお坊さんの文章〔光明の生活より〕を紹介しています。現代のお経ではないかとひそかに思っています。】

 如来より衆生に対する光は三縁(さんえん)にて即ち恩寵である。恩寵=(光明)を被(こう)むる人の信仰に三心あり。近縁(ごんねん)は信。親縁(しんねん)は愛。増上縁(ぞうじょうえん)は欲、に対する関係にて。如来の知恵と慈悲と威力とが、衆生の三心の関係に三縁となるわけである。

   〔親〕                                〔子〕

      知恵‥‥‥‥近縁‥‥‥‥‥(形式)‥‥‥‥信念    

      慈悲‥‥‥‥親縁‥‥‥‥‥(内容)‥‥‥‥愛念    

      同化‥‥‥‥増上縁‥‥‥‥(活動)‥‥‥‥欲念 

 ☆至心(ししん)に深く信ず

 自身は罪悪の凡夫なれども如来無上の願力を以って必ず我を摂取したまうことを

 ☆至心に深く愛す

 如来無上の慈悲を以って衆生を愛したまふが故に我もまたすべてに超えて如来を愛楽(あいぎょう)したてまつる

 ☆至心に深く欲望す

 真善美の霊国に生まれて聖(きよ)き世継ぎとならんことをまたすべてと倶(とも)に安寧を得んことを

                                 次回へ

 

  

  

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2009年6月 6日 (土)

聖(きよ)き同胞

 【明治から大正にかけて活動されたお坊さんの文章を紹介しています。現代のお経ではないかと思っています】

 唯一の大慈父の光に由(よ)って、如来の聖子(みこ)たることを自覚し、人格も一変し来たりて観ずれば、一切の人類は本(もと)一人の慈父によりて、互いに同胞なる事を信ぜらる。然(しか)るに世の人々は、唯肉体ばかりを我と思うて、霊の大慈父在(まし)ますことを識(し)らぬ。故に全く同胞の真意が表れぬ。

 慈父の光によらず、自ら闇と悩みと罪とに埋もれたるものに対して同情に耐えぬ。願わくば同胞に大慈父の在(おわ)すことを信ぜしめ、大光明の中に共に光栄をうけ、共に霊福をわかち、永遠にまで大安寧(だいあんねい)を得んことを望み、相携(あいたずさ)えて光明の中に益々霊(きよ)きに向上せんことを祈るものである。

      ―――――――――――――――――――――――――――――

 米粒上人‥‥こんな呼ばれ方もされていたということです。歩きながら米粒に南無阿弥陀仏の名号を書いたりしたとか。

   道詠歌   十二光のひとつ 無碍光(むげこう)

       世の人の心を照らすみひかりは

               いかなるものもさへぬなりけり

                                   次回へ

         

      

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2009年6月 5日 (金)

  大慈父

 【現代のお経とも言うべき言葉を書き残された、お坊さん(明治~大正)の文章を紹介しています】

 宇宙に唯一の大慈父とはいづれに在(まし)ますや。釈尊の本地【おられる場所の】一切聖人の【が】共に褒め称えて、止(やま)ざるところの如来にて、宇宙最高の淨(きよ)きところに在(ましま)して慈悲と威神(いじん)との光明を以って一切の人類の心の闇と悩みと罪との汚(けが)れより救霊の霊力を与えたもう最尊者に在ます。

 たとへば世界の一切の生物は太陽の光に依(よ)らざれば生存すること能(あた)わざる如(ごと)く、人の心霊は大慈父の慈愛の光明に由(よ)らざれば生存すること能(あた)わず。如来は心霊界の大日輪にして一切の人類を永恒(えいごう)の光明中におさめて聖(きよ)き生命に霊化し光明の裡(うち)に聖き人とし円満なる霊格としたまう大慈父にまします。

  経に『如来威神光明最尊第一にして諸仏の光明及ぶこと能(あた)わざる所なり』と。また『如来は光明あまねく十方世界を照らし念仏の衆生を摂取(せっしゅ)して捨て玉(たま)はず』とあり。唯一の慈父の光明の外(ほか)に衆生の心霊を救うものあることなし。

      ――――――――――――――――――――――――――――

 このお坊さんは道詠歌=昔なら和歌、現代なら短歌、をたくさん詠んでいます

 十二光のひとつ  無量光(むりょうこう)

 ☆ 量(はか)りなき三世(みよ)の佛(ほとけ)のかずゝゞは

                      ただみひとりのわかれなりけり

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2009年6月 4日 (木)

釈尊出世の本懐(しゃくそんしゅっせのほんかい)

 【釈尊の残されたお経は、二千年以上も前のものらしく(不勉強なのです)、方便という方法で、弟子たちをを導こうとしているように思います】

 【その釈尊が入られた悟りの世界に、その世界に入られたのではないかと思われるお方が、この日本に現れました。そのお方は明治から大正にかけて活動された、浄土宗系のお坊さんです】

 【そのお坊さんが現代のお経ともいうべき言葉を文章に残しております。その文章は、方便という形ではなく、現代人もうなずけるような、たとえを持って仏の心を、真理を語っているように思えるのです】

 【例を挙げれば、『渋柿も太陽の光に当たれば、甘柿となるように、人の心の煩悩も仏の光を受けることによって清き心となる。煩悩即菩提である』といったように】

 【その現代のお経とも言うべき文章に接してほしく思い、ここに写し取りたいと思います】

     釈尊出世の本懐。

 釈尊この世に出(いで)ましなされて、生涯にわたってもっぱらお力を尽くしなされた御本懐(ごほんかい)は、那邊(なへん=どこ)にありやとなれば、それは世のもろもろの衆生が、心の闇と悩みと罪とにより、闇のうちにさまよいあるを哀れみ、すべての人類を明るきと安(やすき)と聖(きよ)きに復活させ而(しか=そう)して円満なる人とし永遠の光明に導かんがために世に御出ましなされた。

 経に「如来無尽大悲を以って三界を哀れみ、光(ひろく)道教(=おしえのみち)を開き、群萌(ぐんもう)を救わんと欲し、恵むに真実の利を以ってす」と。恵むに真実の利とは如来の慈父の光明を獲得して聖き人と生まれ変わって現世を通じて永遠の生命を得(え)せしめんとの御慈悲なり。

 【私心(わたくしごころ)が感じられないこのお方の文章は、本当に心地よいです】

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2009年4月25日 (土)

好ましい心を感じ、そして味わいましょう。

 心理といえば、人の心の作用のことであります。

 宗教といえば、神や仏の世界のことでしょう。

 でも悪魔の宗教なんてのもありますね。

 神や仏は善の世界の象徴であり、悪魔といえばそれこそ悪の世界の象徴でしょう。

 そして人の心にも好ましい心があれば、好ましくない心もあります。

 人の心には神や仏の善の心も、悪魔の心もあるということ。ということは、神や悪魔の世界と人の心は同質とみてもよいのではないでしょうか。

 善=好ましい心とは、感情的には、やさしさとか、思いやりとか、他者を思いやる心ですね。

 理性的には、道徳心といったものでしょうか。

 意志的には、自分を向上させようという、また他者をも向上させようという、向上心といったものかと思います。

 だから好ましい心が好ましくない心より勝っていれば、人は好ましい生き方が出来るように思います。

 好ましい精神状態のときは、心は明るく、軽く、姿勢も正しく、自分の行動に言い訳をするといったことがありません。

 胸を張って堂々としていられるのです。

 ここで私が強調しておきたいのは、この心持をよく味わって欲しいのです。

 この心地よさをよく感じて欲しいのです。

 何も特別な時間を作らなくても、日常の生活の中で常にこのような心持を味わい、感じることが、これからの好ましい宗教的生き方だと受け止めたいのです。

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2009年4月18日 (土)

悪をなさず善きを行なう

 悪いことはするな、善い事を行なえ。と釈尊は仰ったようです。

 法句経(183番)に

 もろもろの悪(あしき)をなさず もろもろの善(よき)を行なう

 おのれのこころを淨(きよ)くす これ 諸仏の教えなり (七仏通誡偈)

 というのがあります。

 これは百一歳になられてなお活躍中の松原泰道氏の訳です。いまから35年ほども前に氏が「法句経入門」というタイトルで出版した本(祥伝社・NONブック)にあります。当時ベストセラーになりました。

 釈尊はなぜ悪いことをするな、善い事を行なえと仰ったのでしょうか。

 人生を深く考える人、‘哲学’される人は、様々な事例を挙げて説明されることでしょう。でも私にはそうした頭脳も知識もありません。

 したがってごく浅い解釈に、そしてあっけない結論になってしまいますが、次のように受け止めています。

 心は、肉体と同じように使えば使うほど育つから、発達するからだと。

 自分の好ましいほうの心が、好ましくないほうの心より勝ってくるにつれ、心持が明るく、また軽くなるような気がしませんか。そんなときは姿勢も正しく、気分も前向きとなり、悪いことなど考えるようなことはしないものです。

 そこで私が強調したいのは、好ましい状態のときの心持を、心地よさを味わって欲しいのです。意識して実感して欲しいのです。

 この心地よさ、好ましいほうの心の喜びは神や仏の心、神や仏がいま喜んでいるんだなぁと思ってもよいのではないでしょうか。

 なぜならば神の心と人の良心(やさしさとか)は同質と思えるからです。

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2009年3月15日 (日)

神や仏の心

 或るお坊さんの文章を紹介してきて、しばらく経ちますが、久方ぶりに私の浅薄な考えを、ここに記してみようと思います。

 宗教といえば神、そして仏ということになります。

 仏という言葉には善的な要素しか含まれていないように思いますが、人が死ねば仏に成ったという受け止め方もあり、また、神となるとどうも悪の神と云う様な表現も可能なように、曖昧な感じがします。

 ですから敢えてここでは好ましいほうの心、その世界のシンボルとして、それを神や仏と定義しておきたいと思います。

 この世は二面性という特性があるように思うのです。

 表と裏。此の世とあの世。(これは現実の世界と架空の世界という受け止め方も出来るかも)。そして物質と精神。といったような。

 そして精神の世界も、善と悪。神と悪魔。大悟に煩悩。

 そこで宗教が受け持つ精神世界の、善の世界をめざして、がんばりましょうというメッセージを伝えたく思います。

 心は使うほどに育ちます。皆さん、気づいていますでしょうか。

 肉体は使うほどに鍛えられ、また発達し、使わなければ退化していくことを、誰でもが知っています。

 同じように心も使うほどに育つのです。好ましい心も、好ましくない心も。

 悪い行いをし続けていると、だんだんそれがエスカレートしていって、以前にはためらうような行いが、今は平気でできるようになっていた、と云う様なことは誰もが体験しているのではないでしょうか。好ましくないほうの心が育ったのです。

 同様に好ましい心も、使うほどに育つのです。

 たとえば偽善ではないかと思うような、また思われるような行いも、しないよりしたほうがよいように思います。

 そのうちに、偽善かもしれないなどと思うことなく、それが当たり前のこととして、行えるようになっているはずです。

 好ましい心が育ったのですね。

 例えば、腕立臥せが3回しかできなかったのが一週間もやってみれば十回ぐらいは出来るようになります。そうなると3回4回は単なる通過点でしかなく、苦も無く出来ますが、筋肉が付いたからですね。

 同じように、好ましい心が育てば、良い行いをしていると云う様な意識など、持つことなく普通に行動できるようになるのです。

 このことは生活全般に当てはめることが出来ます。好ましい生活、生き方、をするということは好ましい宗教的生き方といえるのではないでしょうか。

 ことさらに信仰生活を送ろうと、特別なことをしなくても、好ましい生き方をする事が、宗教的生き方だと受け止めてよいように思えるのです。

 これからの宗教は、いわゆる‘信心’というものから、開放されるべきだと思っています。

          もう少し考えを深めて、次回へつなげてみます。

 

 

 

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2009年2月14日 (土)

自己の伏能なる霊性を開発して正当に生活す。

 【明治から大正にかけて活動されたお坊さんの文章を紹介しています。現代のお経ではないかと思っています】

 前にすでに示弁(じべん)したる一切衆生悉有仏性とて人々仏と成り得らるる性は本来具有す。

 全体人の性と云うものは、仏に成る性が本来具有するものを開発すると云う立義(りゅうぎ)と、また一方には人の性は本来罪悪のみで、神の性は具有するものでないと云う立義とあり。前(ぜん)のに依れば、人が本来有(も)って居る霊性を開発しさえすれば、自分が即ち仏であると、是は前(ぜん)に自力宗と云う方なので、大霊と霊性に於いて合致するを云うので、総ての人の本性は罪悪ばかりで、神性具有せずと云う方は、自己というものを消極的の悪しき方のみに見て、而して悪しき方を消して善に作(な)らしむる為なのである。

 基督教(きりすときょう)では、人の身と心と別けて人の肉体は全く悪のみで救わるる物でないと云い、心は本来罪悪では有るけれども神に救わるる性は有(も)って居ると云うている。

 仏教には両主義ありて、本来具有している霊性開発すれば成仏し得ると云うのと、また凡夫は本罪悪なれども、如来の光明に同化せられて、仏の意(こころ)を自己の意(こころ)と為(す)れば煩悩も霊化して見れば菩提である。渋柿の実も甘乾(あまぼし)と代わるのであると。

 冷静は本来具有しているけれども、開発しなければ顕れぬ。喩(たと)えば鶏卵(たまご)が孵化しなくては、鶏と成ることは能(でき)ぬ。霊性の卵を暖めて孵化するのが、即ち仏法である。如何に外部から暖めても自己に霊性が本来具有して居らぬものなれば、仏に成ることは出来ぬ。

 帰する処、人々本来具有の仏性を開発して仏と為す大法が即ち仏法である。本来我々は仏の子である故、親の恵(めぐみ)だに享(う)くる時は必ず、親と同じく仏に成ることが出来る。

 華厳経に仏子一衆生として見るに、如来の智慧あらずと云うことなし。但し妄想執着を以て証得せず。若し妄想を離るれば、一切智(いっさいち)、自然智(じねんち)、無碍智(むげち)即ち現前することを得、またそのとき如来普(あまね)く法界一切衆生を観(かん)じて、而してこの言を作(な)し給う。奇哉(きなるかな)、奇哉、此諸衆生如何具(このもろもろのしゅじょういかんがぐ)するに如来智慧(にょらいちえあり)、迷惑不見(めいわくしてみず)。我当(われまさ)に教ふるに聖道を以てし其れをして、永く妄想を離れ自ら身中に如来広大智慧、仏と異(ことな)ること無きを得せしむと。

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宇宙の目的

 【明治から大正にかけて活動されたお坊さんの文章を紹介しています。現代のお経のように思っています】

 宇宙に目的ありと見るは、宇宙の能力即ち働きの結果は、必ず終局の目的に至ると云うので、大霊の力用(りきゆう)から人格的の仏を出現して心霊界の太陽とし、斯(か)く大霊には不可思議の力用ありて、人格的の仏(ぶつ)として人類を摂して、終局目的の霊界に帰趣せしむるを云う。此れは大霊の力に基づく。

 また被救者(すくわるゝもの)の方から云うも、大霊目的と言う力は恰も天の太陽の光を以て、地上の動物植物を化育する如くに、如来は心霊界の太陽として、人類の心霊を霊化して、罪悪深重の凡夫を救霊して光明の生活に入らしめ、煩悩の罪悪を化して霊的に為し給う働きである。

 浄土教の如く弥陀の本願力、一切の人類を光明中に摂して、この心光に触(ふ)るる者は、正定聚(しょうじょうじゅ)の位に入りて、光明生活に為らしめ給うと云う如きは、大霊の目的を顕はす処の宗教である。

 右の二教は前のは自己の霊性開発すれば、大霊と合致する故に、大霊と自己と一体であると悟ったので、後のは衆生は罪悪生死の凡夫であるが、如来の大願霊力の光に霊化するときは凡夫の煩悩も化して、霊態と為りて自ずから心の内容が如来と同化すると云うのである。故に宇宙の法則(ほっそく)と力能とが、衆生の心を開き仏(ほとけ)に化する力用(りきゆう)である。

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2009年2月12日 (木)

宇宙の大法と目的 その2

【明治から大正にかけて活動されたお坊さんの文章を紹介しています。現代のお経ではないかと思っています】

 法界等流の仏法は自然の法と共に、常に存在するけれども、それを知らぬが凡夫である。人仏の釈尊が此の世に出でようとも、出でざるとも、決して替わりはせぬ。唯、常恒(じょうごう)存在の真理を釈尊は自覚して、而して一切の人類を覚らしめるのである。

 故に経に有仏、無仏、性相常住とて宇宙の大法は本来常住なもので、釈尊が構造いたしたのではない。如来はただ真理を自ら発見なされたのである。例えば地球の運動は、ガリレオの出世(しゅつせ)以前より、常然として運転して居ったのである。地球は太陽を中心として私転公転している。その理をガリレオが発見したのである。がガリレオの世に生まれぬ昔から地球は運転して居った。それの如くに仏法は本来常住にて、即ち宇宙の真理が衆生と合致して衆生に正覚の光を為さしむ。真理を発見なされたのが釈尊である。

 また釈尊は大霊の人格現として、衆生を自覚せしむる法を教えんが為に、世に出でなされたのである。故に法華経に諸仏如来が、此の世に出現したる一大事の因縁は、人々が本具して居る仏知見を開きて、仏の正道に悟入せしめんが為に世に出で給うたのであると。禅家の直指人心見性成仏とて、人々(にんにん)本具して居る仏の性が開顕する時は、自分が是(これ)仏であると。すべて自力宗と云う方は、吾人が本(もと)大霊と連絡したる霊性を有って居るが、自ら迷うて此の霊性を顕わさぬから凡夫である。

 此の霊性が開顕する時即ち仏である。霊性を開発する理法を仏法というのである。仏法の本体は宇宙大法にして、法爾法然として宇宙に存在す。此の真理を一切衆生に開示せんが為に諸仏は世に出現し給う。

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宇宙の大法と目的

【明治から大正にかけて活動されたお坊さんの文章を紹介しています。現代のお経ではないでしょうか】

 吾人は一切の万物と共に宇宙の大法則を離れて存在は出来ぬ。また宇宙の大勢力に由らずして生活は得られぬ。宇宙は何を目的として吾人を此の世に生死せしむるならん。

 古来宇宙には目的ありや無しやの問題について種々説あり。一切の人類の如きは本(もと)神より出でたるも、ひとたび神に背きたる罪は子孫まで遺伝し、如何なる人も罪なきは無かりき。故に暗黒に堕する事免(まぬが)れざりき。己が罪を自覚して神の光に救霊せられたる者は、永く神と共なる事を有べきなり、との説もあり。

 また宇宙を唯物的、機械的に見ている学者あり。それらは宇宙に神なるものありて、その目的に世界を成し得るものでないと。また一方には宇宙は人智を以て、測るべからざる神が存在し、その神の法則に随い神の聖意に契(かな)う時は、永遠に帰趣する事が出来るものであると。

 仏教に宇宙終局の目的が存するや否やというに就いて二あり。一は大法に随う時は成仏すると。他は宇宙の目的即ち如来の力に依って済(すく)はるゝとの二あり。

 宇宙の大法に随順するは、即ち法性(ほっしょう)の理に随うことにて、若し法性の理に順(したが)う時は、終(つい)には法性の中(うち)に証入することが出来る。換言すれば人は神から禀(うけ)たる神の性を有(もっ)て居るから、神の聖意に随い神の真理に契(かな)う様にせば、神の国に入り神と共に生活する事が出来ると、又更に換言すれば、人は本(もと)、真如から出たものであるから真如に迷うて居るから、凡夫であるけれども、若し迷いを翻(ひるがへ)して真如と一致する時は即ち仏であると。

 仏法は本来、宇宙の大法である。真如より迷いたる衆生を、本の真如の都に帰す真理法が即ち仏教である。

 真如を如実に覚悟なされたのが即ち仏陀である。一切の衆生を真如の本覚に証入するの大法は、本然として常恒(じょうごう)に存在して永遠に変易(へんえき)することなし。

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2009年1月17日 (土)

心霊不滅 3

【明治から大正にかけて活動されたお坊さんの文章を紹介しています。現代のお経ではないかと思っています】

 実相論的に衆生に、生滅と不生滅との二種ある事を説かば、天台は実相論である。空間的である。先ず、宇宙大霊の分子たる衆生心に、本然(ほんねん)として迷悟善悪十界の性能、具(つぶさ)に具す。即ち衆生心に生滅する方と不生滅との両面ありて存す。然(しか)れども不生滅の仏慧(ぶつえ)の性、本然有(も)っておりながら自覚せぬ故に、生死に流転するものを迷いの凡夫と云い、之を六道と云う。

 彼等は不生滅の性(しょう)を有って居ても、開示し悟入する事をせぬ故に、唯(ただ)生滅の方にのみ迷うて惑(まど)いて業を造り、業の勢力に縁(よ)りて生(しょう)を享(う)く。迷いの中(うち)に於(お)いても、自ら因縁に随(したが)って善と悪との業に軽重ありて、三悪三善道と分かるるのである。生(しょう)また業を造り死また生(しょう)を招き輪廻止む事なし。之を生滅に迷う衆生と云う。

 四聖法界(ししょうほうかい)とは声聞(しょうもん)、縁覚(えんかく)、菩薩(ぼさつ)、仏(ぶつ)である。衆生が自己の心霊の根底に不滅の霊性、具(ぐ)するを覚知し、仏陀先覚者の教えを聞き、生死の苦の源を諦(あき)らめ、苦の本(もと)は煩悩であると煩悩を断じ、寂滅涅槃即ち不滅の霊界を諦(たし)かめ、此れに入らんとするのには真空無我の道を修(しゅう)せねばならぬと、ついに煩悩の生死の小我を滅して、真空無我の涅槃不滅を証得したるを羅漢と云う。

 天台には、自己の心性本自百界千如一念三千具足するも、開示して仏慧(ぶつえ)現前する時は、仏陀と同じく証(さとり)なれども次第六即あり。正(まさ)しく信じ得る時は、早晩仏性現前すべし。

 若(も)し人の心性(しんしょう)を両断せば、滅と不滅との二性(にしょう)である。肉我の主として諸煩悩に依るの生命は、必ず滅に墜(お)つ。若し霊性に随って生活せる者は、永遠不滅に向かう。前は迷者暗黒の生活、後者は悟者光明の生活なり。前者のみ発展せるものには、人は死すれば滅する者と思う。永遠の生命未だ現前せざる故なり。霊性現前すれば自ずから信認す、自霊永遠不滅の真なる事を。昨日まで自己の不滅を信ぜざる者も、若し一度(ひとたび)大霊の光明に接して霊性現前せんか、忽(たちま)ちに永遠不滅の真理を信じて疑わざるに至らん。

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2009年1月 3日 (土)

心霊不滅 2

【明治から大正にかけて活動されたお坊さんの文章(現代のお経でしょうか?)を紹介しています】

吾人が心も《吾々人の心も》仏教では如来蔵性と云い、絶対無限の大霊を根底として居ると云うのである。故に衆生心には生滅不生滅の二面が有る。一面より見れば生滅なれども、その裏面の一方には不滅の大霊と連絡している。故に霊魂とは、霊は不滅に名づけ魂は生滅の方に呼ぶのである。

もし唯生滅の一方のみ見れば、人は死すれば全く滅したと云うも差し支えないけれども、其の根底の一面には不滅の根がある。野の芝草が冬枯れ蔵(おさ)まって、枯れた方は滅したけれども、蔵(おさ)まって居る根底は生命をもっている。儒教などで人の魂魄は天地に稟(う)けたる精気である。陽気が集まりて魂(こん)となり陰気が凝(こ)りて魄(はく)となり、即ち活ける人の魂魄である。

もし人死すれば魂魄は本の気に分散す。故に遺(のこ)る物なしと。蓋(けだ)し、草の枯れたる方から見たのである。また仏教にて地水火風空の本に還ってでも不滅の霊は存すと云うは、草の蔵(おさ)まりたる根の方より云うのである。いずれも互いに非難すべきでない。

 吾人の心霊生命が意識的に生存せるは、宇宙の大霊的大電気の連絡から、吾人の意識生命と現われたる電燈である。八十年の間元気よく燈(とも)ってついには発電の連絡線が截(た)たる時に、意識的生命の明かりは消滅したるも、宇宙の大霊電は永遠に滅せぬのである。

 さて理屈は置いて実地に証明するところに真理の証明が立つのである。これが仏陀五十年間専心誠意宣伝に力(つと)め給いし道である。

 要するところは生滅の小我と不滅の大我と精神的に合一するところにあり。此れに就いて二途(ふたみち)あり。一は能動的に他は所動的である。甲は自心の最大根底なる如来心を自ら敢えて開発して、自己を空間的にも時間的にも飽くまで膨張して、絶対無限に至る自己心中の宇宙と為すのである。

他は、本来絶対の大霊は永恒本然、自己はその分子なれば大霊を離れて我なし。我は大我の分子なれば、我を大霊に投帰没入して忽(たちま)ちに復活して、大霊を本体と為したる我となる時に不滅の霊となる。甲乙入門を異にするも帰する処大小合一するは一致なり。

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2009年1月 2日 (金)

心霊不滅

【明治から大正にかけて活動されたお坊さんの文章(現代のお経では?)を紹介しています】

 今現在の自我、即ち霊魂なるものは、大宇宙の一分子たることは否定せられぬ。己を見れば宇宙と自己とは、凭麼(いかん【どのような】)の関係を持っている哉を考え見よ。我(わが)生命なるものが全体の宇宙なくては、生存も出来ぬということも疑われぬ。我ら産出されたる分子に、心霊あり生命ありとすれば況(いわん)やその生み出すところの大親に、大霊あり大生命なくてなならぬと云わざるをえぬ。

吾人は宇宙は絶対の大霊大生命であると云うに憚(はば)からず。否仏教は盛んにその真理を教えるのである。これを法身ビルシャナと云う。大なる宇宙は大なる如来である。産出する大御親の如来心と産出されたる分子の衆生心との区別と連絡を図に示せば

  衆生心━━相対的━━生滅━━有限━━小我

  如来心━━絶対的━━不生滅━━無限━━大我

衆生なるものは生まれた者は必ず死す。故に生滅変化なる事は、一般の実験するところ、宇宙全体としては絶対なるものは、無始無終にして過去も無際、未来も無窮なれば、小分子たる衆生の有限を以って、宇宙の本体が滅するか不滅なるかは、測り知ること能はず。絶対なるものには滅すという事は云われぬ故に、不生不滅と云って差し支えない。

 絶対の大霊と分子なる小霊、即ち人の心とは、恰(あたか)も水と浪との例の如く、水は浪にあらざるも浪は水を離れては無い。外見すれば衆生は生滅の生物なれども、本来不滅の大霊を離れて存在は出来ぬ。然らば生滅の衆生心と不生滅の大霊とは、その裏面に於いて不可離の連絡を持っているに相違ない。カント等も云っている。吾人が僅か八十年の生命は永恒不滅の大生命の一分現象であると。

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霊魂の滅、不滅に就いて

【明治から大正にかけて活動されたお坊さんの文章(現代のお経では?)を紹介しています】

 いわゆる霊魂の滅不滅に就いては世間にやかましき問題である。

 その霊魂の不滅の真理を諦(あきら)かに証明し得る法を講説すると云わば、この真理を体得せぬ人より見ればいかに思うか知らぬ。しかしこの問題は今に初めての発見ではない。這般(しゃはん)の大問題を一刀両断に快断したるは吾(わ)が大聖釈尊である。

そもそも聖者釈尊が入道の動機はこの大問題である。彼れ王宮にありて人間最幸福の栄を生まれながら受け得るにもかかわらず、老病死を見て世の非常を悟り、つらつら惟(おもん)みれば人生の果敢(はか)なき事、実に夢幻(ゆめまぼろし)の如し。

老病死苦は貴賎を論ぜず。無常苦空は賢愚を択(えら)ばず。ひとたび生をここに受けたる者、何人かこの法則を免るるもの有らん。我、如何にしてか人生の真理、秘密の奥を究めて生死の源を明らめ、永遠不滅の生命を発見し自ら度し且(か)つ一切を度せんとの大願は、彼の悉達(しった)王子が人間の栄耀を顧みず、独り超然として入山学道の志を奮起せし所以である。

その志願を洩(も)れ承れる臣下の族(やから)より諌(いさ)め告げる者あり曰く、太子よ、御発心(ほっしん)の事については、古(いにしえ)より或いは死後の霊魂は無しといい、或いは未来に滅せずという。いまだ一定したる説なし。凭(かか)る未来の問題に苦しんで、現に受けつつある幸福を捨てるは惜しむべきにあらずやと。

太子曰く、我は死後の有無の問題に就いて発心したるに非ず、然れども今現に我は生死の闇に捕らえられたる奴隷たることは確かである。如何に生死の闇を破って不滅の大光明を発見せんというが、我が志す所の目的である。もし永遠不滅の大光明を発得したならば、一切衆生を同一の光明界に摂取せんとの志願であると。

彼が金剛の志は何人(なんびと)も止(とど)むるに由(よし)なく、ついに奮然として王城を飛び出し入山修行し、初めアララ(修行僧?)等の老仙に解脱の道を問いしかども、未だ自己の理想を満足する能(あた)わず。

独り自ら伽耶(がや)の森林に在りて鍛錬苦行六年の後、ついにヒバラ樹の下、金剛座に端坐し四十九日禅那三昧に入りて、一夜大魔王の内外より侵逼(しんひつ)し来たるを不動の念、迅正(じんしょう)に降伏し大雷強電の夕立の晴れ渡りたる後、一層天月の清涼たるの感あり。

朧月(ろうげつ)八日の明けの明星ほのかに出(いず)る時、金剛座に入って無始の無明朗らかに断尽(だんじん)し、朗然(ろうねん)として正覚の心光、赫躍(かくやく)としてあまねく十方三世を照らして遺すことなし。

ここに於いて、無明生死の源を尽くし煩悩の根を切断し、永劫常住の大涅槃を証得し給えり。即ちこれ、無上正等正覚を得たるなり。初めて生死の大問題を解決し、不滅の真理を得たり。

 仏陀自ら永遠不滅の大光明を得たる仏眼を以って、一切衆生を視給ふて依然として歎じて曰く、奇哉(きなるかな)一切衆生自己と同じく一切無師自然智本自具足して仏と異なること無し。我、如何にして衆生の仏知見を開示して、我と同じく不滅の聖者たらしめんと。そもそも此れ釈尊仏教を以って一切を度するの目的ここにあり。

今、弁栄(べんねい)【この文章を書かれたお坊さんです】身を末世澆季(まつせぎょうき)に受く性拙く身劣るも霊性は同じく毘盧(びる)の分身なり。

 旭日耀然として世を照らす。戸窻(こそう)開く処に、金殿玉楼の牖(まど)のみならんや仮令(たとへ)茅屋草慮(ぼうおくそうろ)たりとも、窻(まど)の開く処に日光の射入する事何ぞ異ならん。心霊開示し永遠不滅の大光明を我が同胞と共にせん事を希(こいねが)う。

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2009年1月 1日 (木)

業識(生命の力)

あけましておめでとうございます。本年(2009)もよろしくお願いいたします。

【昨年に引き続き、明治から大正にかけて活動されたお坊さんの文章を紹介していきます。ここに紹介する文章は、現代の‘お経’ではないかとひそかに思っています】

業識(生命の力)

 人生の個々生命の主体を、内的生活の精神の方より説明せば、仏教には自我、即ち識を説明するに、小乗の浅教より大乗教に至るまで階級あり。

 大霊の分子たる心性を伏蔵する、極少の心生命を無明という。また業識と名づけ、また阿頼耶識と名づく。この阿頼耶識を伏蔵する有機生命は、原形質に存在する。これが極少生命の体である。無明業識という活ける気を衝気(しょうき)という。即ちこの気が活きんと欲する気、この衝気業識が生命の主体であるから、自発的に活動し活きんと欲する気がある。統一的自治体を為す。また有目的に活動している。この蠕動(ねんどう)たる小物生命力に伏蔵している性能が進化の結果は、人間の智力、感情、意思等のごとき、また五体五官のごときもその微小の伏蔵から進化したるに過ぎず。

 生物衝気は、活きんと欲する意力。この活きんと欲する衝動力に貧瞋痴(とんじんち)の三能力を有している。初めは嚮動(きょうどう)的欲動的より進んで人間の意思と進化する。生物の活きんとする目的には食物の栄養の欲、種族保存を目的とする生殖欲、また身体の休息を要する睡眠欲、これら生物の本能に持っている。自己の生命保存の為には自己の害に抵抗する力を憤怒とす。生の衝気の目的に従い盲進するを痴という。意識的生活までに進まざる動物には本能的に貧(とん)と瞋(しん)と痴との力を以って生活す。食欲色欲睡眠欲は衝気の目的を満足する故に快感あり。この気に違逆する境遇は憤怒防禦(ぼうぎょ)し敵し難き時は畏怖を感ず。みな無明業識の働きなり。

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2008年11月29日 (土)

生命は一体その4

【明治から大正にかけて活動されたお坊さんの文章を紹介しています】

斯(か)く科学的に生命を説明する臆説は種々あれども、然るに生命なるものは生物学的に、或いは化学的にのみにては説明し尽くされざるものあり。炭酸水窒の元素を調合し電熱等の分子を加えたればとて、生命の原形質を造る事は不可能ならむ。物質方面のみの学者は、生命の主体の何たるを考えぬ。が併(しか)し人は幼より老に至るまで統一の主体あり。生命の実質には自発的活動と、統一の主体と有目的性とがありて、ただ物質の精妙の結合物とは想われぬ。

生命の主体なる我はただ化合物にあらず。矢張り本体は宇宙の真霊そのものである。吾人の生命は根底に於いて連絡を断つ事はできぬ。生命は実に不思議中の不思議なるもの。宇宙全体の絶対的生命なるものを立てて、吾々個々は同一の本体より分受したるものと認めざるを得ぬ。故に一切の個々は互いに連絡して、断(た)ゆることの出来ぬ関係を有している。

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生命は一体その3

【明治から大正にかけて活動されたお坊さんの文章を紹介しています】

有核生物と為れば核は遺伝の決定素にて、芽胞を構造したりまた成長させ、また細胞活動の連鎖をなせる故に、核は生命の住処である。核の外部はただ生命を扶助する外胞にて、保護の機関に過ぎぬ。生命は核に有るので、分殖するは核が二個に分かるる訳である。然(しか)る時は両方共に外包が出来るのである。

然(しか)して雌雄両性と別るるように成っては、核もまた多数となりて各分業的に掌(つかさど)る処が定まる。生殖を掌る雌(し)と雄(ゆう)との両方の核が、相合(あいがっ)して始めて一個の生命となる。それが即ち父母の間に成りたる子である。核は親の遺伝決定素を有(もっ)ている。而してその子に伝ふ。そうすると子もまた親と同じく、外包に保護せられて核の生命を保存す。生命の坐所なる核は肉体を離れても、子孫に分かれて同一の生命を存続する。親に宿れる生命が、元形質の核を以って子となり、この核が長久の生命にて外包は幾億に替われども、核の生命は永久に存続し、有目的の如くに生物が進化す。原始生物の元形質に伏蔵する性能は、代々に進化の務めを以って居るように感じらるる。親の徳性は核中に含蔵して、之を子に遺伝し核に有(も)てる丈に、外包の身体は構成せらる。

人類に至っては核細胞中に種々雑多に嵌込(はめこみ)式に含蔵して、精子卵子の合体が胎児と成り種々の嵌め込みから、芽発し始め原始生物の虫的の形から、また芽が出で茎から枝と云うように、細胞の分裂の位が階級的に各々(おのおの)特殊的に引き出されて、五体五官等の一定の部分と為り、親の生命及び外包が子と成り、その本は一体の分身にしてこの分身作用からして、世界中に弥漫(びまん)して幾億万と成ったのである。

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2008年10月13日 (月)

生命は一体その2

【明治から大正にかけて活動されたお坊さんの文章を紹介しています】

精神生命の二説は、東西に亘(わた)り数千年に亘りて、唯物唯心主義とまた併行(へいこう)主義との三説は、依然として行はれている。

人の意識が進めば進むに従って、その学説もますます精密に深遠に入れり。然れども唯物主義を以って、精神主義を全滅することが出来ず。唯心主義を以って唯物論の根を絶つことは不可能である。

生物生命の元素なる元形質は、親の元形質から子の元型質に分かれ、細胞は前の細胞から来たので、原始の生物生命は極少の原形質にて、水中に生息せる無核虫の類である。この極少の虫は一個が二個と分かれ、二個が分殖してなにを親とし、子と云うもできぬ。かく転展して千万無量に分かれて生存す。

この極少の生物細胞が結合して、高等動物の形体を組織する一切の動物、ないし人間までもこの細胞の集合したる団体に外でない、もしこの細胞を原料として、人間の塑式(そしき)に容るれば人の形となる。また禽獣より草木に至るまでも、細胞の和合上に様々の形式に形成したるに過ぎぬ。この細胞団体が始めの単細胞から漸次に進化し、腔腸生物と為れば、分業を営み食物を取る物は消化を営むようになり、即ち水母の類にて次に蛭ともまた虻となり数多(あまた)の階級をへて高等動物の猿とも、なお一層に進みて人類に至るも要するところ、同一細胞の仮和合上に種々無量の種類と形式とに組織せられたるに過ぎぬ。仏教に云う四大仮和合を仮に人または衆生と名づけたのである。

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2008年10月12日 (日)

生命は一体

【明治から大正にかけて活動されたお坊さんの文章を紹介しています】

地上に発生したる生物生命に於いては、一切生物界を通じて同一の起源より出でたと云うも、敢えて矛盾はしない。吾々の生命は世界的生命の一部にて、人類の祖先より尚さかのぼりて、生物原始の生命にまで連絡している。原始の生物は極めて単純な細胞に生命があって、それを保護するところの外包なる細胞自体がある。しかして外包なる自体は保護し、且(か)つ働くためには必要なれども、生命は原形質に在りてこれを子々孫々に連綿し、嗣続(しぞく)して死なぬ部分がある。即ち生殖細胞である。父母の細胞が合体して新生命を宿して、根本細胞となる。それが即ち動物及び人間生命の根本である。人の生殖細胞に宿れる生命が、横には広く枝から小枝をなして弥漫し、竪には千万代に嗣続して極まりない。これに依ってみれば生命の宿る細胞は、一体から無限に分身して居るが、しかもその一々の生命が一体から分かれて、生命が進化して人類の生命の如きまた外包なる細胞組織もまた、非常な複雑な状態となった。世界上一切の生命はもと一体の分身にて、各自は一分(いちぶん)を我が生命として居る。若しこれを大にしては、宇宙の一大生命の一部が即ち一切個々の生命である。一切の個々生命を合して宇宙の大生命である。吾人の身体生命が、無数の細胞の集合団体なるが如く、宇宙は一切衆生の集合団体である。

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2008年7月20日 (日)

般若心経の世界?その3

【明治から大正にかけて活動されたお坊さんの文章を紹介しています。般若心経の世界?の最後の部分です】

尚進みたる大乗に依れば、吾人衆生の心体は生滅と不生滅との和合即ち、如来蔵性てふ宇宙全一の心霊体とも云うべき如来蔵性である。それが無明の悪習に薫ぜられて識の根底は絶対無限なれども、表面からは個体となって、固体の方より見れば、生滅流転しその根底は如来蔵、不生不滅の体となる。大海の水と波の如くである。起信論に自性清浄心が無明の風に依って動じて染心と成る等と。その意(こころ)は本(もと)宇宙全一の大心態が動きて、小我分裂の識と為るので、大海水は本一体なれども波浪を起こす、即ち個々と現さるるが如くである。

之(これ)真如は随縁して万法を作る。万法と為った方から見れば、種々に転変すれども、本態からは常一である。然り之によって見れば、人生という一切衆生の浪は、一大真如の大海に起(た)てるに外ならず。宝性論に無始世より本性ありて諸法の依止(えし)〔頼る、ということのようです〕と作(な)る。性(しょう)に依って諸道及び涅槃の果を証するとあり。この意(こころ)は宇宙には無始より一大心性がありて、それが一切万有の本体と為って居るので六道の衆生と成るのも、また諸仏の常住涅槃を証するのも、本は同一の心性である云うことである。

尚(な)を進んで円教(えんきょう)に依れば性海円明、法界縁起、無碍自在、一即一切、一切即一、主伴円融と、故に十心を説いて無尽を顕はすと云う。心は、

人生の吾人(ごじん)〔我々、という意味にとって良いかと思います〕の心源は一大心霊が本(もと)なれど、あらゆる世界に現われたる万物と離れぬ関係を有って居るので宇宙間に現はるる万有の本体は同一の大霊なので、現出した上には、悉(ことごと)く無尽の性と相とに分かれて、しかして万物が相互(たが)いに関係を有って居る。万有が相互いに非常な複雑なる関係を以って、因縁因果関聯(かんれん)は重々無尽である。故に国土にも一切動植物の性相も作用にも無尽に変現して異なって居る。

この理から敷衍(ふえん)せば生物の本体は一大心霊にて其の体には無尽の性(しょう)と相と力とを有って居るから、其の働きから、宇宙の無尽の国土も生じ、国土の上に無尽の衆生を生ずるは一大心霊の為なので、無尽に現ずる性を以って、複雑因縁にて生物も原始的より向上するので、自己の内性に向上しやうとする性能ありて、外の相互いの関係からして益々生物の種々に分派し進化し原始の生物から無数の階級を経て人類に進化し人類も無尽な因縁により各々(おのおの)個性を特殊的に発展し人類は心的にも無尽の因縁に依りて悉く特殊的の個性を為す此れ人類にて、本、大法身(だいほっしん)から生じたるものにてあれば、環(ま)た本の一大法身に還るべき性を具して居る。この本現に還る法が即ち仏法である。仏陀生涯に在りての宣伝する処、此処に在り。

万有が複雑なる因縁を以って居て成り立っていることは、華厳経の重々無尽の説を借用するが宜しい。人の心に種々の性が有って是が因縁に依りて、迷いて六道の衆生となり悟りて四聖(ししょう)法界と成り、而(しか)して人生最終に帰趣(きしゅ)する処は、十界の中(うち)、独り仏界のみである。故に一切衆生は悉(ことごと)く仏性ある故に仏法に依りて成仏する。即ち之が終局である。

【般若心経の世界?がやっと一区切りつけられるところまできました。用語が難しいので分かりにくいですが、関心のある方は熟読してみてください。このお坊さんの書き残された文章(書籍になってます)は現代のお経ではないかと思っています】

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2008年7月14日 (月)

般若心経の世界?その2

【明治から大正にかけて活動されたお坊さんの文章を紹介しています。前回からのつづきです】

識。小乗有部の説によれば俗にいう霊魂はカルマ即ち業である。三世に輪廻するとは即ち業の勢力が相続するので、我が心と身とは共に消滅す。雑一阿含に、諸々(もろもろ)の所有の色身(しきしん)、若(も)しは細、若しは好、若しは醜、若しは遠(おん)、若しは近(ごん)、当(まさ)に観ずべし、彼の一切は皆(みな)是(これ)死の法なり。受と想と行と識も共にまた々かくの如しと。

この説に依れば此の身も意識と共についに消滅すと。若し心身ともに消滅せば未来に業が如何に相続するか。そは中有の五蘊には細意識を有しているからと云うも、未だ不了義たるを免れぬ。大乗唯識に至りては、衆生の意識の上に末那と阿頼耶識の二識を立て、一切の心意識を統べて阿頼耶とす。個性のいわゆる霊魂を阿頼耶識と云う。是は蔵という義にて、蔵(くら)の中に一切の物を蔵(おさ)むる如くに、一切の法の種子を包蔵しているのである。

本来阿頼耶識は分別したり意識したりする働きはない。属性の末那(まな)が現(あら)はるると阿頼耶のことを我と分別し執着す。意識と共に善悪の業を相続するものは阿頼耶である。阿頼耶は本体で業は力用(りきゆう)である。人が一代造りたる善悪の業は身(しん)と意識とが無くなっても業の勢力は阿頼耶の種子に有って居る。

恰(あたか)も杉の種子には解いて見ても、枝葉根茎とては見えぬけれども、種子の成分には大杉と成る能を有って居る様なもので、阿頼耶の業識に業種子として、その作用から結果を招くべき為の性分(せいぶん)を有って居る。これらの種子が、阿頼耶の体に伏蔵して、其れが因種と成って、外縁(げえん)を待ってまた更に新たなる身体を構成するので、しかしてその業と云うも色心以外の存在ではない、阿頼耶識の作用に外(ほか)ならぬ。

蓋(けだ)し一切の業の種子は、皆阿頼耶に伏蔵して六道種々の身を受く。故に一切の個性の根底は、阿頼耶の種子が持続の体である。此の種子から芽発して末那(まな)分別の我執と現行(げんぎょう)し、この末那の我意の現業がまた阿頼耶の種子と為って、種子から現行(げんぎょう)を生じ、現行の因が業を結果して種子と為り、かくのごとく展転して生死極まりなく、阿頼耶の業力は常恒(じょうごう)流転して止まず、羅漢果を得て解脱する時に初めて解脱す。

また仏となる時には識は転じて仏の四大智慧になる。

【是が最後の結論ではありません。もう一歩進んだ‘真理’の世界が語られていきます】

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2008年7月12日 (土)

般若心経の世界?生命の最深根底

【もしかするとここからの文章は現代版‘般若心経’なのかもしれません。頭が悪いのでなんとなく感じるといったレベルでの判断です。内容が‘真理’にかかわってきているようなので、ちょっと長いですが、一気に書き込みます】

【明治から大正にかけて活動されたお坊さんの文章です】【前回から続きます】

前の説に比較して尚一層根底を深く人の精神生命を研究する説によればこうである。精神生命なるものは、唯物主義者が唯物質の精妙なる物が、精神また生命と為るという如きはまだ生命の主体の何たるかを深く思索せぬ説である。

〔ここからはお坊さんの意見のようです〕人には幼少より老年に至るまで統一的主体が存す。また生命の実質には自発的発動と、統一的活動と、統一的主体と、有目的性能をもっておる。唯物質巧妙なる結合の結果とは考えることが出来ぬ。生命の主体なる自我なるものは、唯物質の化合物とは思われぬ。矢張り自我の本体は宇宙の一大本体なので、其れと連絡せる精神生命は、一大生命との関連を立つことはできぬ。

此の精神生命は実に不可思議中の不可思議なるものなので、宇宙全体が絶対的一大生命で、一切の個々は同一本体より分産せられたる分子であれば、吾人は物質的結合の個体としては、一惑星に寄生せる微小生物大なる宇宙に対しては、実に果敢なき物なれども精神生命に於いて、絶対永劫の大霊と連絡せる限りに於いて、宗教上の欲望の対象なる永遠の生命と、常住の平和をも得らるるものと信ず。

また吾人は自我の根底に絶対大霊と連絡すると共に、一切の個々は内面の本体に於いて相互いに関連して、断つことの出来ぬ関係を以っていることは、空論に非(あら)ずして直観し得らるる事実である。〔ここまで〕

〔ここから暫く小乗仏教の説を紹介してます〕小乗仏教にては生命の主体なる我といふものを否定し無我を認む。五蘊即ち身と意(こころ)との蘊集(うんじゅう)の細微なる意識が在りて前生(ぜんしょう)より後生に相続するものとす。(1)本有、生より死に至る迄。(2)死有、将に(まさ)に死せんとする一刹那を云い。(3)中有、此れに死して未だ生せざる間を云い。(4)生有、将に生まれんとする時に名ずく。

この五蘊即ち色受想行識なる心と身とが、初めの生より死に至る迄の仮和合(けわごう)〔仮のわごう?〕が死して中有の五蘊は微小にして見る能(あたはぬ)沓気(えうき)〔流れるような気?〕である。故に沓(えう)〔とう?〕を以って名づく。業力に随(したが)って母胎に入る之をカララという。漸漸(ぜんぜん)に胎児が長養せられて母胎より出で生より老死に至り生死に輪廻する状態を十二因縁とす。

十二因縁とは初めに無明即ち煩悩である。煩悩の衝動から(二)行即ち善悪業に依って(三)に識、六道の中(うち)何(いず)れかの業識となる。(四)識が母胎に胎(やど)るとき名識と云う名は識にて色は父母より受けたる卵と精子である。元形質と霊魂と和合したときを名色と名ずく(五)六入、胎児が初発より眼耳鼻舌身意の形ずくる間を六入と云う。

(六)触(そく)すでに十ヶ月間に胎児が漸漸(だんだん)形つくりて外に出でても差し支えなきまでになり始めて分娩せらるを触(そく)という。児(じ)生まれて未だ感覚できずして触覚だけを感ずる間なり。(七)に受、小児が家庭や教育等の四囲(い)の刺激を受けていよいよ人格を作るの準備を為す時代で(八)愛、十三、四歳より後なり(九)取(十)有(十一)生(十二)老死とす。

【一気にと思ったのですが結構大変です。半ばを超えたところなので、ここで公開しておきます。後半は次に】

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2008年7月 7日 (月)

道詠歌

突然ですが、般若心経の世界?に入る前に此のお坊さんの道詠歌(和歌あるいは短歌)を紹介しておきたくなりました。

仏教には弥陀に十二の光のあることを説いたお経があるようです。十二光仏と云うようですがその一つ一つを歌に詠んでいますので其れを紹介したいと思います。

無量光  量(はか)りなき三世(みよ)の佛のかずかずはたゞみひとり

      のわかれなりけり

無辺光  世を照らすさとりの海はそこひなくまたほとりなき光なりけり

無碍光  世の人の心を照らすみひかりはいかなるものもさへぬなりけ

      り

無對光  たくらぶるものこそなけれいと尊(たか)きわがみほとけの照

      らす光に 

炎王光  いかばかり罪の薪(たきぎ)はつもるとも焼きつくすなり弥陀

      の光は

清浄光  見るにつけ聞くにつけても染みやすき心をきよき光とぞする

歓喜光  歓びの光にあはゞとことはにのどけき春の心地こそすれ

智慧光  みほとけのさとき光に照らしみよみな実相のすがたなりけり  

不断光  耐えなくば海水(わだつみ)さへもくみつくす何ごとかそもなら

      ざらめやは

難思光  眼にみえぬ思ひにもまた及ばぬは光にふれし心なりけり

無稱光  うれしともまた楽しとも言の葉に及ばぬ光にあふ心地かな

超日月光  月も日も及ばぬ人のこゝろまで照らすほとけの光なりけり

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2008年7月 5日 (土)

般若心経 プロローグ

皆様、お疲れ様です。これまで紹介してきた文章は、書籍では約二十ページの分量です。正直言いまして、私も十分理解できていません。なんとなく分かったような気にはなっていますが。

明治から大正にかけて活動されたお坊さんで、手紙などは候文(そうろうぶん)で書かれていた時代ですから、表現も特殊なのです。私などは言葉をよく吟味して、読み返しながら進むといった状態です。それでも、どこまでが他者の意見でどこからがご自身の考えなのかわかりにくかったりします。

さてこのあとは、般若心経の世界を語っているのではないかと思える内容の文章が始まります。巷には般若心経の解説本があふれていますが、ここでは般若心経を‘解説’しているのではありません。

このお坊さんの支持者たちは、釈尊の入られた悟りの世界にこの方も入られたと受け止めており、私もそうしたお坊さんであるように思えます。理由の一つにこのお坊さんの文章に‘私’という言葉がほとんど出てこないことです。普通なら私はこう思う、といった表現で考えを述べるものですが、それがほとんどありません。

もう一点は、これまで紹介してきた文章ではあまり感じられないのですが、仏の慈悲の心から言葉が発せられているような味わいがあって、このお方の文章に接しているととても心持が良いのです。神や仏の慈悲の心に接しているような気分になるのです。

そんなお坊さんが、‘般若心経’を手本にして解説するのではなく、ご自身が悟りの境地を体感し、それをご自身の言葉で表現している。そんな感想を抱く文章を、引き続き紹介していきます。(大きな声で言う自身はありませんが、このお方の残された言葉は‘現代のお経’ではないかと密(ひそ)かに思っています。

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2008年6月22日 (日)

生物中‥‥

【明治から大正にかけて活動されたお坊さんの文章を紹介しています】

生物中動物系統中に最も高等に進化したのが人類である。人類の生命と為る炭酸水窒の化合の原形質と云うも、また数多(あまた)の分子が結合したので、その分子を結合したその基は原子である。原子は精気の電子にて、その原形質分子は炭原子450窒素166水素720酸素140硫黄6合(がっ)して1500の原子から成り立っておると。

原形質は不安定なる化合物の結晶であるから、不断に代謝作用が行はれている。また細胞は原形質の分解によりて種々の作用を為し、自発的運動と摂食的運動と消化作用と生殖作用融合作用等を営みておる。これを生活というのである。この生活の過程を生命と云う。かようなわけで、人の精神と云うものも実に不可思議なる自動機械に外ならないと。

人の精神生命を生物学また化学的に帰するものと想う学者の見解である。

この見解は生命の現象を物質として見る主義なのであるが、未だこの物理的化学的の精神生命の根底にはなお一層根本的原理の存在することを認めざる点において半面の真理たること疑いなし。

【科学者の見解を真理であるといっています。でも半面の真理であるということのようです。】

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自然界に‥‥

【明治から大正にかけて活動されたお坊さんの文章を紹介しています】

自然界に物質的常恒流運の精気がある。個々皆独立す。これを電子とす。この電子に陰電子と陽電子との二気あり。この両者は反対の気であって、而(しか)も互いに相助け合いこの両電子が結合して原子と成る。そは一の陽電子が原因となり、数多(あまた)の陰電子が相縁(あいよっ)て原子と成る。しかしてこの原子を単位とする物質を元素と為す。

水素酸素等の諸元素がこれなので、また原子の結合に安定と不安定とあり。ラジウムの如き外囲をめぐる陰電子を放ち出だす。これを放射運動とす。元素の差別は原子を組織する電子の数によりて成る。次に原子が結合して安定する物を分子と為す。この分子を単位とする物質の化合して、分子が炭素化合したるものを元形質と為す。

また分子が結晶したものが即ち細胞である。細胞は膠(こう)状《にかわ状》の結晶物である。これが永く化合して同化と分解とが行なわる。これ即ち自発的運動と消化作用とである。かくの如きの細胞が更に結合して一体と成り、初めて生物となるのである。

【ここでは、学者の研究成果から、生命の原理を説明しようとする視点のあることを取り上げているようです。研究成果を否定しているわけではありません。むしろ学者の研究成果を学んでいることがわかります。】

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2008年6月21日 (土)

ヘッケルは‥‥

【明治から大正にかけて活動されたお坊さんの文章を紹介しています】

またヘッケルは、生命は自然力と全く異なった生気なる、一種の力が存在している特殊力が生命である。ゆへに自然に発生するものでないかと思えば、また生命もおよそ自然に発生すべき性の存在にて、自然の結果に外(ほか)ならぬと。然(しか)し自然の物質の精妙なる物が生命と成るのであると。

ある学説は、自然のほかに別に生気てふ者が存在して、その原因から生じたる生命ではない。自体物質全体が生命である。これは機械的に発生したる結果にて、身体即ち生命である。身体を離れて生命という力の存在は認むる能(あたは)ずと。

また併行論者あり、精神と肉体とは相即不可離的(そうそくふかりてき)に併行している故に、肉体の変化は精神に及ぼし、精神の変化は肉体に影響す。故に心身平行的に観ずべく生命は、一方に偏して観るべからずと。

生物学また生理学的に生命を研究するその方から云わば、人の生命の元理は物質的機械的科学的に説明し得らるるものと為(す)る、即ちこうである。

【解りにくいですが、ヘッケルの説、ある学説、併行論者とを取り上げています。そして次は水素とか酸素とかの言葉が出てきます】

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2008年6月15日 (日)

生命 起源 真理

【明治から大正にかけて活動されたお坊さんの文章を紹介しています】

人類の生命も、人類よりは遡(さかのぼ)りて、地球上に生物が発生したる起源については、世間の学者、種々の臆説を下して居る。また生命を研究する学者が、生命の原理を物質的科学的に説明し、原始の生命は炭素の化学作用から発生し、炭素は物質の精妙な物にて変化に富み柔らかにて弾力あり、炭素窒素水素と共に精の極なる物が化合して原形質が成り立つ。この原形質が生命の本であると。

またある学説には、生命は醗酵素を中心として構成せる一種の芽胞が、生命を創造し発達し分化の基礎となりて、眼耳等の一切の官能を統制し、芽胞は生物を発する種の核即ち、生命体である芽を発する胞、これが固体を決定するのである。

核が、触媒的物質が科学的に、細胞が分裂に際し、核が分かれて二個の細胞の特性が、卵の身体組織に移り、核の細胞中に種々雑多に含有する、細胞分裂の位に発達してから、四肢五官の特性に抽出されて、身体の一定の部分となりぬ。

卵および精中無数の単位が、組成要素の発育に際し触媒作用にて発生するので、単位特質は根本芽胞内に存して、発達したる有機となると云う様な臆説もある。

【むずかしくて要約など出来ません】

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2008年5月31日 (土)

人生の根元、その4

【明治から大正にかけて活動されたお坊さんの文章を紹介しています】

仏教では、衆生心の方から段々と遡(さかのぼ)りて、本源に達すれば一大心性であると見て、儒道二教では生物生命を形気として、形気の本源は天地の本源宇宙一大元気と見て居る。

仏教では、個々の本源は即ち宇宙全一の本体なので、一大心霊である。儒道では個々の生命も形気であって、その本源も宇宙一大元気であると。

この両教は自己の生命を個々として見ると、宇宙全体の本体と見ると大いに異なる如くなれども、実には絶対の本体を甲は外面よりし、乙は内面よりして一体の両面観に過ぎぬ。浅く外面より見ると、深く内面より観ずるのは、人の精神生命を物質的に見ると、心霊体と見るのとは洋の東西を問わず、古来互いに自己の受け持ちを主張して、真理として侘(た)の観る方を否定する。

若(も)し尚一隻眼(せきがん)を開きて、双方を統観したならば務めて争う必要もない。然れども相互に分業的に研究すれば精密に極むるに便ならん。

儒道二教よりは西洋唯物派の論者、本体論物質原子説などは最も精微な物である。更に相互に受け持ちの研究について説明する処(ところ)を暫く紹介せん。

【次は西洋の原子説などが紹介されていきます】

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2008年5月22日 (木)

人生の根元、その3

【明治から大正にかけて活動されたお坊さんの文章を紹介しています】

故により以上の権大乗法相家の説に依れば、阿頼耶識という心的存在が万物の本源にて、一切の身と心と世界との性を含蔵している不可思議な物にて、吾人が五官として物を視、声を聞くも、智情我を認むる心も、外の日月星辰山河大地等と、現象を観ておる観る心も、向こうに観ゆる物も一の阿頼耶識である。

人類ばかりでない、一切衆生尽くこの識を本として存在する。これが生の本体である。この識の存する限りは生は、常恒に活動して六道生死の身と世界とを受けて居る。若し羅漢、果を得れば生の本体が解脱して無為真空に帰元する。

この識なるものは個々別々である。故に成仏出来得るのと、出来ぬのとあると、説くが之が法相家の義である。この説も終局真理ではない。一乗教によれば一切衆生心の体は仏性とも如来蔵性とも名づけて個々の本体は絶対唯一の心性態である。

故に自己の心性を開発すれば、各々悉く是仏である。衆生は自己の本体、自性清浄の本性を開顕せずして、自ら迷うて凡夫と為って居る。自己の本源は即ち全一の心霊体である。

【阿頼耶識とは潜在意識のようなことか、それとももっと深い意識なのか、とても実感など出来そうにありません。】

                          まだ続きます。  次回へ

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2008年4月15日 (火)

人生の根元、その2

【明治から大正にかけて活動されたお坊さんの文章です】

故に人生の根元を生の内面生活の心識の方からたずねざれば分からぬ。それは仏教である。同じ仏教と云うても深浅(しんせん)がある。

浅き小乗の説では人生の本源は業(ごう)即ちカルマである。力である。この力の存在が善き方に向かって働けば人間天上の身を受け、悪しきに働けば地獄餓鬼の生を受く。善悪の業が原因と為って苦楽の生を感ず。故に人生の本は業であると。《ここまでは宗密禅師の説か》

然らば個々は業を本として生じたとすれば、一切の個々が依止(えし)〔または、いし。頼ること〕する世界は誰が造りしや。それは各々(おのおの)の共同の業から共同の果(か)として苦楽の世界を感ずるので、詮(せん)ずる所共同業から造りだした世界である。

いずれにしても業が人生の根本というが小乗教の説で尽理(じんり)ではない。何となれば業が本体なれば業を為す物は誰か。体なき物に力用(りきゆう)があるはずはない。

【難解‥‥ですね。辛抱してください】   ‘依止’とは頼るという意味らしいです。  

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2008年4月13日 (日)

人生の根元

【明治から大正にかけて活動されたお坊さんの文章です】

人生より一層大なる団隊が在る。仏教の謂ゆる衆生性である。一切生物界を通じて同一の根底に出でて方面と程度とは殊にするも生物界に共通性がある。故に一切衆生悉有仏性とて仏教では同一に見ている。

人生の根本生命の本源を古来研究されてある。仏教に依って人生の根源をいかに説明しているかに就いて、唐の宗密禅師は能(よ)く人生を研究され、原人論を著された。今その大意を述べてみよう。

人生の根源については、儒道二教の説によれば人の本(もと)は近くは親である。親にはまた親ありて大本は祖先である。其の祖先も其の本は天地陰陽から。陰陽二気も其の大本は宇宙一大元気である。一大元気が自然の道法に依りて天地万物乃至人間が出来たのであるから一大元気が万物の本源である。

一大元気が自然にみなぎりて万物を生じたのであるから、終には自然の元気に還るのであると。師はこれらの説をなじって曰く、彼らは生物の原因結果の所以も研究せずして唯、自然に生じ自然に還るという説は幼稚な説である。

【唐の宗密禅師は‘原人論’のなかで、儒教も道教も幼稚な説である、と云っているというのです。この文章を書いているお坊さんが言っているのではありません】

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2008年3月29日 (土)

人は構造的には同じだが‥‥

【明治から大正にかけて活動された宗教家の文章なので、読みづらいのですが釈尊のとった方便という形でなく、例え話をもって説明していますので、現代人には納得しやすいのではないでしょうか。】

如来は一切(いっさい)万物を産出する御親(みおや)にして、また一切衆生の最終の帰趣する処である。如来より生産せられたる万物は、尽(ことごと)くその子であって、如来の本国に帰着せざれば、ついに三界六道に迷没流転するばかりである。一切衆生と共に、此の世界の一切(いっさい)国土も、如来より発生せられし物にてあれば、ついには如来の本源に帰着すべきである。

人生というは只(ただ)個人生のみではなく、人類は尽(ことごと)く同一の本体より出でたるも、同一類同一種族のみではない。本(もと)同一の根底より出でたるも、その人類の祖先は一体より出でて、漸漸(だんだん)に親より子に、枝より小枝に益々分かれ出し、広く世界中に弥蔓(びまん)し時間的にも子より孫に相続して、数千万年に亘(わた)りて原始的人類より現在の人に至るまで、相互の連絡は一の大樹の枝葉の如くに繋がりて、切り断つことの出来ぬ関係に血脈が連絡している。

人類中に文明あり野蛮あり、賢者ありまた愚者あり。又その受けたる資質形相のごときは各々相(あい)具わっている。五体また五官等の形より肉的生活、精神の智力意志また気質等は各々(おのおの)相(あい)同じからざるも、人間式に構造せられたる上に於いては同一である。人類は四肢五官五臓六腑等に至るまで、尽(ことごと)く同一形式でありながら、身体の大小の分量またその格好及び姿貌(すがたかたち)より、その内的の気質に至るまで、世界人類無数億の人間中に、一人として内容形質に至るまで悉(ことごと)く特殊的に出来ておりて、同一でない。いかに姿貌(すがたかたち)の好醜(よしあし)内性の智愚賢不肖(しょう)等の差別はあれども、人生という資格は同一である。

【ふと、思いましたが、例えば宇宙の精神を海、大海とすれば、人の心は岩に砕け散ったしぶき、水滴に例えてよいのではないでしょうか。宇宙の精神も人の心も同質、同じなのです。宇宙の精神に神や悪魔を想定するように、人の心にも好ましい心‘良心’があれば好ましくない心‘仏教でいう煩悩’があります。人の好ましいほうの心‘良心’を神や仏の心の反映と受け止めたいものです。】

【また人は容姿や性格の違いはあっても、目や耳や口、手足があるなど構造としては皆同じである。それと同じように人生という資格は同じなのだと仰っているのですね】

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2008年3月22日 (土)

華厳経に‥‥その2

『明治から大正にかけて活動したお坊さんの言葉です』

人生の帰趣を講ずるに吾人(ごじん)は宗教の見地から話すのである。故(ゆえ)に宗教的主体としての人生である。先に宇宙の大法に則(のっと)る行為と自己の霊性を発揮する行為とは自ずと自然一致するとは、すでに説明したり。宗教の関係は己のみにて成立するものにあらず。

主体と客体の親密に合一する処に成立す。主体は即ち人にて客体は神即ち仏教の如来である。人の信仰と如来の恩寵との関係である。信仰とは己をささげて帰命(きみょう)信頼すること恩寵とは人の信仰に対して慈愛心をもって愛念養成し給う親子的関係の如くである。

通じて神と如来は宇宙大零体の代表的人格現にして即ち大霊である。人は宇宙の一分子にて小霊である。大霊と小霊と合一するところまた小霊が大霊の恩寵に依って開発霊化せられて闇と悩みと罪の状態より明と安と善とに復活せらるるにあり。人が小宇宙とすれば如来は大宇宙大我である。

大我より小我に対する力用(りきゆう)を恩寵といい小我が大我の恩寵を仰ぎて同化せらるるのが恩寵である。華厳経に、その因縁を明らかに譬えを以って示されてある。譬えば日光あり眼(まなこ)ありて良くものを見るが如く仏日の光明は信心の眼ありて良く感合することが得らると。

此の両者の最親密なる関係の処に宗教心が成り立つのである。人の信仰と如来の恩寵との交渉に依って宗教心は成り立つと云うも此れが説明は主体と客体との両者のうちその一方より為さざるを得ぬ。

【ここでは神と人との親密な関係にこそが宗教心が成り立つ、と言っています。人が高いところへ登ろうとするならば、木をよじ登るとか、はしごを使うとか、階段を登るとかします。拠りどころが必要になります。神や仏の世界、悟りや浄土、あるいは天国へ近付こうとするならば、自分の好ましい方の心‘良心’を神や仏の心が反映したものと受け止め、その‘良心(やさしさとか)’をこそ、拠りどころとすべきでしょう】

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2007年12月 2日 (日)

この世の‘二面性’について

今日は私の世界観?といったようなことを述べてみます。

二元論という言葉があります。たぶんそれになるのかと思いますが、とりあえず二面性という表現を使います。‘二元論’について学んだことがないので。

物質と精神、誕生(ビックバン)と消滅(ブラックホール)、磁石のSとN、男と女、そして心の世界では神と悪魔、というようにこの世は二面性があると、受け止めてよいのではないでしょうか。

そして男と女が合体して新たに一つの生命が誕生するように、この宇宙は精神と物質が合体して現象しているのだと思えるのです。物質だけが、精神だけが、別々にあるのではないのです。

当然皆様は、それでは心霊現象はどう受け止めればよいのかと思うことでしょう。私もどう捉えたらよいのかわかりません。霊能者ではないので。

でもその答えが見つからなくても、不都合には感じません。ここのブログでは好ましいほうの心を信じ育てましょう、との提案をしているのですから。

それからお釈迦様は、この世は始めもなければ終わりもない、と仰いましたが、これは球体の表面を想像することで、わかったような気になっています。

そして‘色即是空’。これは次元が高すぎます。考えてわかる世界ではないと思います。実践によってのみワカルのではないでしょうか。

尻切れトンボのような感じで終わることになってしまいましたが、こんな風に物事を捉えています。多少は私の思考のスタンスが伝わりましたでしょうか。

ちょっと不満足な内容ですが、疲れてきたのでここで切り上げます。

                    次回もよろしくお願いします。

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2007年11月17日 (土)

なぜ人を殺してはいけないのか

突然ですが、以前話題になった「なぜ人を‥‥」についての考えを述べておきます。

若者が何気なく発したこの質問に、大人がうまく答えられなかったということで、一時話題になりました。

書籍や雑誌では知識人が、そしてインターネットでは一般人も、さまざまな意見を述べています。一人ひとりがそれぞれ考えを持っているようです。

共通している点は、理性の方面より道徳的観点に立って、「してはいけない」理由を考え、答えていることです。

人は生まれつきの能力、育った環境、学んだ知識や価値観、そして好き嫌いの感情などを拠りどころとして、理性が判断します。だから一人ひとり意見が違ってくるのです。

理性に頼らず、感情の方面から見てみましょう。

人の好ましいほうの心‘良心(優しさなど)’が人を苦しめるようなことをするでしょうか。人を苦しめるようなことをするのは、好ましくないほうの心(仏教では煩悩)の為せるわざといえます。私を苦しめたあいつは憎い、殺してやると思う気持ちは、好ましくないほうの心の反応なのです。  正当性があれば‥‥と考えるのはそれはもう理性の世界ですね。

いいか悪いかで答えるならば、好ましい心は善、好ましくない心は悪との定義は認知されているのですから、好ましくないほうの心の働きなので、悪いことであるといえるのです。

でも、なんか理屈っぽいですね。

そんなことより、人に優しくできる‘良心’を育てましょう。

  次回は‘清と濁’でコメントする予定です。

 

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