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2009年2月8日 - 2009年2月14日の4件の記事

2009年2月14日 (土)

自己の伏能なる霊性を開発して正当に生活す。

 【明治から大正にかけて活動されたお坊さんの文章を紹介しています。現代のお経ではないかと思っています】

 前にすでに示弁(じべん)したる一切衆生悉有仏性とて人々仏と成り得らるる性は本来具有す。

 全体人の性と云うものは、仏に成る性が本来具有するものを開発すると云う立義(りゅうぎ)と、また一方には人の性は本来罪悪のみで、神の性は具有するものでないと云う立義とあり。前(ぜん)のに依れば、人が本来有(も)って居る霊性を開発しさえすれば、自分が即ち仏であると、是は前(ぜん)に自力宗と云う方なので、大霊と霊性に於いて合致するを云うので、総ての人の本性は罪悪ばかりで、神性具有せずと云う方は、自己というものを消極的の悪しき方のみに見て、而して悪しき方を消して善に作(な)らしむる為なのである。

 基督教(きりすときょう)では、人の身と心と別けて人の肉体は全く悪のみで救わるる物でないと云い、心は本来罪悪では有るけれども神に救わるる性は有(も)って居ると云うている。

 仏教には両主義ありて、本来具有している霊性開発すれば成仏し得ると云うのと、また凡夫は本罪悪なれども、如来の光明に同化せられて、仏の意(こころ)を自己の意(こころ)と為(す)れば煩悩も霊化して見れば菩提である。渋柿の実も甘乾(あまぼし)と代わるのであると。

 冷静は本来具有しているけれども、開発しなければ顕れぬ。喩(たと)えば鶏卵(たまご)が孵化しなくては、鶏と成ることは能(でき)ぬ。霊性の卵を暖めて孵化するのが、即ち仏法である。如何に外部から暖めても自己に霊性が本来具有して居らぬものなれば、仏に成ることは出来ぬ。

 帰する処、人々本来具有の仏性を開発して仏と為す大法が即ち仏法である。本来我々は仏の子である故、親の恵(めぐみ)だに享(う)くる時は必ず、親と同じく仏に成ることが出来る。

 華厳経に仏子一衆生として見るに、如来の智慧あらずと云うことなし。但し妄想執着を以て証得せず。若し妄想を離るれば、一切智(いっさいち)、自然智(じねんち)、無碍智(むげち)即ち現前することを得、またそのとき如来普(あまね)く法界一切衆生を観(かん)じて、而してこの言を作(な)し給う。奇哉(きなるかな)、奇哉、此諸衆生如何具(このもろもろのしゅじょういかんがぐ)するに如来智慧(にょらいちえあり)、迷惑不見(めいわくしてみず)。我当(われまさ)に教ふるに聖道を以てし其れをして、永く妄想を離れ自ら身中に如来広大智慧、仏と異(ことな)ること無きを得せしむと。

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宇宙の目的

 【明治から大正にかけて活動されたお坊さんの文章を紹介しています。現代のお経のように思っています】

 宇宙に目的ありと見るは、宇宙の能力即ち働きの結果は、必ず終局の目的に至ると云うので、大霊の力用(りきゆう)から人格的の仏を出現して心霊界の太陽とし、斯(か)く大霊には不可思議の力用ありて、人格的の仏(ぶつ)として人類を摂して、終局目的の霊界に帰趣せしむるを云う。此れは大霊の力に基づく。

 また被救者(すくわるゝもの)の方から云うも、大霊目的と言う力は恰も天の太陽の光を以て、地上の動物植物を化育する如くに、如来は心霊界の太陽として、人類の心霊を霊化して、罪悪深重の凡夫を救霊して光明の生活に入らしめ、煩悩の罪悪を化して霊的に為し給う働きである。

 浄土教の如く弥陀の本願力、一切の人類を光明中に摂して、この心光に触(ふ)るる者は、正定聚(しょうじょうじゅ)の位に入りて、光明生活に為らしめ給うと云う如きは、大霊の目的を顕はす処の宗教である。

 右の二教は前のは自己の霊性開発すれば、大霊と合致する故に、大霊と自己と一体であると悟ったので、後のは衆生は罪悪生死の凡夫であるが、如来の大願霊力の光に霊化するときは凡夫の煩悩も化して、霊態と為りて自ずから心の内容が如来と同化すると云うのである。故に宇宙の法則(ほっそく)と力能とが、衆生の心を開き仏(ほとけ)に化する力用(りきゆう)である。

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2009年2月12日 (木)

宇宙の大法と目的 その2

【明治から大正にかけて活動されたお坊さんの文章を紹介しています。現代のお経ではないかと思っています】

 法界等流の仏法は自然の法と共に、常に存在するけれども、それを知らぬが凡夫である。人仏の釈尊が此の世に出でようとも、出でざるとも、決して替わりはせぬ。唯、常恒(じょうごう)存在の真理を釈尊は自覚して、而して一切の人類を覚らしめるのである。

 故に経に有仏、無仏、性相常住とて宇宙の大法は本来常住なもので、釈尊が構造いたしたのではない。如来はただ真理を自ら発見なされたのである。例えば地球の運動は、ガリレオの出世(しゅつせ)以前より、常然として運転して居ったのである。地球は太陽を中心として私転公転している。その理をガリレオが発見したのである。がガリレオの世に生まれぬ昔から地球は運転して居った。それの如くに仏法は本来常住にて、即ち宇宙の真理が衆生と合致して衆生に正覚の光を為さしむ。真理を発見なされたのが釈尊である。

 また釈尊は大霊の人格現として、衆生を自覚せしむる法を教えんが為に、世に出でなされたのである。故に法華経に諸仏如来が、此の世に出現したる一大事の因縁は、人々が本具して居る仏知見を開きて、仏の正道に悟入せしめんが為に世に出で給うたのであると。禅家の直指人心見性成仏とて、人々(にんにん)本具して居る仏の性が開顕する時は、自分が是(これ)仏であると。すべて自力宗と云う方は、吾人が本(もと)大霊と連絡したる霊性を有って居るが、自ら迷うて此の霊性を顕わさぬから凡夫である。

 此の霊性が開顕する時即ち仏である。霊性を開発する理法を仏法というのである。仏法の本体は宇宙大法にして、法爾法然として宇宙に存在す。此の真理を一切衆生に開示せんが為に諸仏は世に出現し給う。

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宇宙の大法と目的

【明治から大正にかけて活動されたお坊さんの文章を紹介しています。現代のお経ではないでしょうか】

 吾人は一切の万物と共に宇宙の大法則を離れて存在は出来ぬ。また宇宙の大勢力に由らずして生活は得られぬ。宇宙は何を目的として吾人を此の世に生死せしむるならん。

 古来宇宙には目的ありや無しやの問題について種々説あり。一切の人類の如きは本(もと)神より出でたるも、ひとたび神に背きたる罪は子孫まで遺伝し、如何なる人も罪なきは無かりき。故に暗黒に堕する事免(まぬが)れざりき。己が罪を自覚して神の光に救霊せられたる者は、永く神と共なる事を有べきなり、との説もあり。

 また宇宙を唯物的、機械的に見ている学者あり。それらは宇宙に神なるものありて、その目的に世界を成し得るものでないと。また一方には宇宙は人智を以て、測るべからざる神が存在し、その神の法則に随い神の聖意に契(かな)う時は、永遠に帰趣する事が出来るものであると。

 仏教に宇宙終局の目的が存するや否やというに就いて二あり。一は大法に随う時は成仏すると。他は宇宙の目的即ち如来の力に依って済(すく)はるゝとの二あり。

 宇宙の大法に随順するは、即ち法性(ほっしょう)の理に随うことにて、若し法性の理に順(したが)う時は、終(つい)には法性の中(うち)に証入することが出来る。換言すれば人は神から禀(うけ)たる神の性を有(もっ)て居るから、神の聖意に随い神の真理に契(かな)う様にせば、神の国に入り神と共に生活する事が出来ると、又更に換言すれば、人は本(もと)、真如から出たものであるから真如に迷うて居るから、凡夫であるけれども、若し迷いを翻(ひるがへ)して真如と一致する時は即ち仏であると。

 仏法は本来、宇宙の大法である。真如より迷いたる衆生を、本の真如の都に帰す真理法が即ち仏教である。

 真如を如実に覚悟なされたのが即ち仏陀である。一切の衆生を真如の本覚に証入するの大法は、本然として常恒(じょうごう)に存在して永遠に変易(へんえき)することなし。

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