自己の伏能なる霊性を開発して正当に生活す。
【明治から大正にかけて活動されたお坊さんの文章を紹介しています。現代のお経ではないかと思っています】
前にすでに示弁(じべん)したる一切衆生悉有仏性とて人々仏と成り得らるる性は本来具有す。
全体人の性と云うものは、仏に成る性が本来具有するものを開発すると云う立義(りゅうぎ)と、また一方には人の性は本来罪悪のみで、神の性は具有するものでないと云う立義とあり。前(ぜん)のに依れば、人が本来有(も)って居る霊性を開発しさえすれば、自分が即ち仏であると、是は前(ぜん)に自力宗と云う方なので、大霊と霊性に於いて合致するを云うので、総ての人の本性は罪悪ばかりで、神性具有せずと云う方は、自己というものを消極的の悪しき方のみに見て、而して悪しき方を消して善に作(な)らしむる為なのである。
基督教(きりすときょう)では、人の身と心と別けて人の肉体は全く悪のみで救わるる物でないと云い、心は本来罪悪では有るけれども神に救わるる性は有(も)って居ると云うている。
仏教には両主義ありて、本来具有している霊性開発すれば成仏し得ると云うのと、また凡夫は本罪悪なれども、如来の光明に同化せられて、仏の意(こころ)を自己の意(こころ)と為(す)れば煩悩も霊化して見れば菩提である。渋柿の実も甘乾(あまぼし)と代わるのであると。
冷静は本来具有しているけれども、開発しなければ顕れぬ。喩(たと)えば鶏卵(たまご)が孵化しなくては、鶏と成ることは能(でき)ぬ。霊性の卵を暖めて孵化するのが、即ち仏法である。如何に外部から暖めても自己に霊性が本来具有して居らぬものなれば、仏に成ることは出来ぬ。
帰する処、人々本来具有の仏性を開発して仏と為す大法が即ち仏法である。本来我々は仏の子である故、親の恵(めぐみ)だに享(う)くる時は必ず、親と同じく仏に成ることが出来る。
華厳経に仏子一衆生として見るに、如来の智慧あらずと云うことなし。但し妄想執着を以て証得せず。若し妄想を離るれば、一切智(いっさいち)、自然智(じねんち)、無碍智(むげち)即ち現前することを得、またそのとき如来普(あまね)く法界一切衆生を観(かん)じて、而してこの言を作(な)し給う。奇哉(きなるかな)、奇哉、此諸衆生如何具(このもろもろのしゅじょういかんがぐ)するに如来智慧(にょらいちえあり)、迷惑不見(めいわくしてみず)。我当(われまさ)に教ふるに聖道を以てし其れをして、永く妄想を離れ自ら身中に如来広大智慧、仏と異(ことな)ること無きを得せしむと。
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