心霊不滅 2
【明治から大正にかけて活動されたお坊さんの文章(現代のお経でしょうか?)を紹介しています】
吾人が心も《吾々人の心も》仏教では如来蔵性と云い、絶対無限の大霊を根底として居ると云うのである。故に衆生心には生滅不生滅の二面が有る。一面より見れば生滅なれども、その裏面の一方には不滅の大霊と連絡している。故に霊魂とは、霊は不滅に名づけ魂は生滅の方に呼ぶのである。
もし唯生滅の一方のみ見れば、人は死すれば全く滅したと云うも差し支えないけれども、其の根底の一面には不滅の根がある。野の芝草が冬枯れ蔵(おさ)まって、枯れた方は滅したけれども、蔵(おさ)まって居る根底は生命をもっている。儒教などで人の魂魄は天地に稟(う)けたる精気である。陽気が集まりて魂(こん)となり陰気が凝(こ)りて魄(はく)となり、即ち活ける人の魂魄である。
もし人死すれば魂魄は本の気に分散す。故に遺(のこ)る物なしと。蓋(けだ)し、草の枯れたる方から見たのである。また仏教にて地水火風空の本に還ってでも不滅の霊は存すと云うは、草の蔵(おさ)まりたる根の方より云うのである。いずれも互いに非難すべきでない。
吾人の心霊生命が意識的に生存せるは、宇宙の大霊的大電気の連絡から、吾人の意識生命と現われたる電燈である。八十年の間元気よく燈(とも)ってついには発電の連絡線が截(た)たる時に、意識的生命の明かりは消滅したるも、宇宙の大霊電は永遠に滅せぬのである。
さて理屈は置いて実地に証明するところに真理の証明が立つのである。これが仏陀五十年間専心誠意宣伝に力(つと)め給いし道である。
要するところは生滅の小我と不滅の大我と精神的に合一するところにあり。此れに就いて二途(ふたみち)あり。一は能動的に他は所動的である。甲は自心の最大根底なる如来心を自ら敢えて開発して、自己を空間的にも時間的にも飽くまで膨張して、絶対無限に至る自己心中の宇宙と為すのである。
他は、本来絶対の大霊は永恒本然、自己はその分子なれば大霊を離れて我なし。我は大我の分子なれば、我を大霊に投帰没入して忽(たちま)ちに復活して、大霊を本体と為したる我となる時に不滅の霊となる。甲乙入門を異にするも帰する処大小合一するは一致なり。
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