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2008年12月28日 - 2009年1月3日の4件の記事

2009年1月 3日 (土)

心霊不滅 2

【明治から大正にかけて活動されたお坊さんの文章(現代のお経でしょうか?)を紹介しています】

吾人が心も《吾々人の心も》仏教では如来蔵性と云い、絶対無限の大霊を根底として居ると云うのである。故に衆生心には生滅不生滅の二面が有る。一面より見れば生滅なれども、その裏面の一方には不滅の大霊と連絡している。故に霊魂とは、霊は不滅に名づけ魂は生滅の方に呼ぶのである。

もし唯生滅の一方のみ見れば、人は死すれば全く滅したと云うも差し支えないけれども、其の根底の一面には不滅の根がある。野の芝草が冬枯れ蔵(おさ)まって、枯れた方は滅したけれども、蔵(おさ)まって居る根底は生命をもっている。儒教などで人の魂魄は天地に稟(う)けたる精気である。陽気が集まりて魂(こん)となり陰気が凝(こ)りて魄(はく)となり、即ち活ける人の魂魄である。

もし人死すれば魂魄は本の気に分散す。故に遺(のこ)る物なしと。蓋(けだ)し、草の枯れたる方から見たのである。また仏教にて地水火風空の本に還ってでも不滅の霊は存すと云うは、草の蔵(おさ)まりたる根の方より云うのである。いずれも互いに非難すべきでない。

 吾人の心霊生命が意識的に生存せるは、宇宙の大霊的大電気の連絡から、吾人の意識生命と現われたる電燈である。八十年の間元気よく燈(とも)ってついには発電の連絡線が截(た)たる時に、意識的生命の明かりは消滅したるも、宇宙の大霊電は永遠に滅せぬのである。

 さて理屈は置いて実地に証明するところに真理の証明が立つのである。これが仏陀五十年間専心誠意宣伝に力(つと)め給いし道である。

 要するところは生滅の小我と不滅の大我と精神的に合一するところにあり。此れに就いて二途(ふたみち)あり。一は能動的に他は所動的である。甲は自心の最大根底なる如来心を自ら敢えて開発して、自己を空間的にも時間的にも飽くまで膨張して、絶対無限に至る自己心中の宇宙と為すのである。

他は、本来絶対の大霊は永恒本然、自己はその分子なれば大霊を離れて我なし。我は大我の分子なれば、我を大霊に投帰没入して忽(たちま)ちに復活して、大霊を本体と為したる我となる時に不滅の霊となる。甲乙入門を異にするも帰する処大小合一するは一致なり。

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2009年1月 2日 (金)

心霊不滅

【明治から大正にかけて活動されたお坊さんの文章(現代のお経では?)を紹介しています】

 今現在の自我、即ち霊魂なるものは、大宇宙の一分子たることは否定せられぬ。己を見れば宇宙と自己とは、凭麼(いかん【どのような】)の関係を持っている哉を考え見よ。我(わが)生命なるものが全体の宇宙なくては、生存も出来ぬということも疑われぬ。我ら産出されたる分子に、心霊あり生命ありとすれば況(いわん)やその生み出すところの大親に、大霊あり大生命なくてなならぬと云わざるをえぬ。

吾人は宇宙は絶対の大霊大生命であると云うに憚(はば)からず。否仏教は盛んにその真理を教えるのである。これを法身ビルシャナと云う。大なる宇宙は大なる如来である。産出する大御親の如来心と産出されたる分子の衆生心との区別と連絡を図に示せば

  衆生心━━相対的━━生滅━━有限━━小我

  如来心━━絶対的━━不生滅━━無限━━大我

衆生なるものは生まれた者は必ず死す。故に生滅変化なる事は、一般の実験するところ、宇宙全体としては絶対なるものは、無始無終にして過去も無際、未来も無窮なれば、小分子たる衆生の有限を以って、宇宙の本体が滅するか不滅なるかは、測り知ること能はず。絶対なるものには滅すという事は云われぬ故に、不生不滅と云って差し支えない。

 絶対の大霊と分子なる小霊、即ち人の心とは、恰(あたか)も水と浪との例の如く、水は浪にあらざるも浪は水を離れては無い。外見すれば衆生は生滅の生物なれども、本来不滅の大霊を離れて存在は出来ぬ。然らば生滅の衆生心と不生滅の大霊とは、その裏面に於いて不可離の連絡を持っているに相違ない。カント等も云っている。吾人が僅か八十年の生命は永恒不滅の大生命の一分現象であると。

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霊魂の滅、不滅に就いて

【明治から大正にかけて活動されたお坊さんの文章(現代のお経では?)を紹介しています】

 いわゆる霊魂の滅不滅に就いては世間にやかましき問題である。

 その霊魂の不滅の真理を諦(あきら)かに証明し得る法を講説すると云わば、この真理を体得せぬ人より見ればいかに思うか知らぬ。しかしこの問題は今に初めての発見ではない。這般(しゃはん)の大問題を一刀両断に快断したるは吾(わ)が大聖釈尊である。

そもそも聖者釈尊が入道の動機はこの大問題である。彼れ王宮にありて人間最幸福の栄を生まれながら受け得るにもかかわらず、老病死を見て世の非常を悟り、つらつら惟(おもん)みれば人生の果敢(はか)なき事、実に夢幻(ゆめまぼろし)の如し。

老病死苦は貴賎を論ぜず。無常苦空は賢愚を択(えら)ばず。ひとたび生をここに受けたる者、何人かこの法則を免るるもの有らん。我、如何にしてか人生の真理、秘密の奥を究めて生死の源を明らめ、永遠不滅の生命を発見し自ら度し且(か)つ一切を度せんとの大願は、彼の悉達(しった)王子が人間の栄耀を顧みず、独り超然として入山学道の志を奮起せし所以である。

その志願を洩(も)れ承れる臣下の族(やから)より諌(いさ)め告げる者あり曰く、太子よ、御発心(ほっしん)の事については、古(いにしえ)より或いは死後の霊魂は無しといい、或いは未来に滅せずという。いまだ一定したる説なし。凭(かか)る未来の問題に苦しんで、現に受けつつある幸福を捨てるは惜しむべきにあらずやと。

太子曰く、我は死後の有無の問題に就いて発心したるに非ず、然れども今現に我は生死の闇に捕らえられたる奴隷たることは確かである。如何に生死の闇を破って不滅の大光明を発見せんというが、我が志す所の目的である。もし永遠不滅の大光明を発得したならば、一切衆生を同一の光明界に摂取せんとの志願であると。

彼が金剛の志は何人(なんびと)も止(とど)むるに由(よし)なく、ついに奮然として王城を飛び出し入山修行し、初めアララ(修行僧?)等の老仙に解脱の道を問いしかども、未だ自己の理想を満足する能(あた)わず。

独り自ら伽耶(がや)の森林に在りて鍛錬苦行六年の後、ついにヒバラ樹の下、金剛座に端坐し四十九日禅那三昧に入りて、一夜大魔王の内外より侵逼(しんひつ)し来たるを不動の念、迅正(じんしょう)に降伏し大雷強電の夕立の晴れ渡りたる後、一層天月の清涼たるの感あり。

朧月(ろうげつ)八日の明けの明星ほのかに出(いず)る時、金剛座に入って無始の無明朗らかに断尽(だんじん)し、朗然(ろうねん)として正覚の心光、赫躍(かくやく)としてあまねく十方三世を照らして遺すことなし。

ここに於いて、無明生死の源を尽くし煩悩の根を切断し、永劫常住の大涅槃を証得し給えり。即ちこれ、無上正等正覚を得たるなり。初めて生死の大問題を解決し、不滅の真理を得たり。

 仏陀自ら永遠不滅の大光明を得たる仏眼を以って、一切衆生を視給ふて依然として歎じて曰く、奇哉(きなるかな)一切衆生自己と同じく一切無師自然智本自具足して仏と異なること無し。我、如何にして衆生の仏知見を開示して、我と同じく不滅の聖者たらしめんと。そもそも此れ釈尊仏教を以って一切を度するの目的ここにあり。

今、弁栄(べんねい)【この文章を書かれたお坊さんです】身を末世澆季(まつせぎょうき)に受く性拙く身劣るも霊性は同じく毘盧(びる)の分身なり。

 旭日耀然として世を照らす。戸窻(こそう)開く処に、金殿玉楼の牖(まど)のみならんや仮令(たとへ)茅屋草慮(ぼうおくそうろ)たりとも、窻(まど)の開く処に日光の射入する事何ぞ異ならん。心霊開示し永遠不滅の大光明を我が同胞と共にせん事を希(こいねが)う。

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2009年1月 1日 (木)

業識(生命の力)

あけましておめでとうございます。本年(2009)もよろしくお願いいたします。

【昨年に引き続き、明治から大正にかけて活動されたお坊さんの文章を紹介していきます。ここに紹介する文章は、現代の‘お経’ではないかとひそかに思っています】

業識(生命の力)

 人生の個々生命の主体を、内的生活の精神の方より説明せば、仏教には自我、即ち識を説明するに、小乗の浅教より大乗教に至るまで階級あり。

 大霊の分子たる心性を伏蔵する、極少の心生命を無明という。また業識と名づけ、また阿頼耶識と名づく。この阿頼耶識を伏蔵する有機生命は、原形質に存在する。これが極少生命の体である。無明業識という活ける気を衝気(しょうき)という。即ちこの気が活きんと欲する気、この衝気業識が生命の主体であるから、自発的に活動し活きんと欲する気がある。統一的自治体を為す。また有目的に活動している。この蠕動(ねんどう)たる小物生命力に伏蔵している性能が進化の結果は、人間の智力、感情、意思等のごとき、また五体五官のごときもその微小の伏蔵から進化したるに過ぎず。

 生物衝気は、活きんと欲する意力。この活きんと欲する衝動力に貧瞋痴(とんじんち)の三能力を有している。初めは嚮動(きょうどう)的欲動的より進んで人間の意思と進化する。生物の活きんとする目的には食物の栄養の欲、種族保存を目的とする生殖欲、また身体の休息を要する睡眠欲、これら生物の本能に持っている。自己の生命保存の為には自己の害に抵抗する力を憤怒とす。生の衝気の目的に従い盲進するを痴という。意識的生活までに進まざる動物には本能的に貧(とん)と瞋(しん)と痴との力を以って生活す。食欲色欲睡眠欲は衝気の目的を満足する故に快感あり。この気に違逆する境遇は憤怒防禦(ぼうぎょ)し敵し難き時は畏怖を感ず。みな無明業識の働きなり。

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