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2009年6月24日 (水)

愛楽(あいぎょう)

 【明治から大正にかけて活動されたお坊さんの文章を紹介しています。現代のお経ではないかと思えてなりません】

 至心に深く愛楽(あいぎょう)す。如来無上の恩寵(おんちょう)をもて一切を愛護霊育(あいごれいいく)し給ふ。故に我らも至心に如来を愛慕し奉る。

 宗教上の精髄は感情にあり。いわゆる自己の罪悪を嫌忌(けんき)し、厭悪(えんお)し如来の恩寵を欽慕愛恋し、妙色相好を憧憬して寤寐(ごび)【起きている時も寝ているときも】に忘るる事、能(あた)はず、神霊の尊貌(みすがた)を思う時、自ずから新鮮の活気を生じ、生死の苦を厭(いと)ひ法性常楽(ほっしょうじょうらく)を欣(ねが)ひ神秘の内容に不可思議の妙容(みすがた)を感じ、主我の妄執を脱して真我の内に融合し罪悪垢穢(ざいあくくえ)の状態より解脱して、聖霊態に融入(ゆうにゅう)せんと欲する如きものは悉(ことごと)く感情にあり。

      ――――――――――――――――――――――――――――

 私見。

 このお坊さんは、宗教の精髄は感情にあり。とおっしゃっていますが、この言葉に接すると、不遜ですが‘わが意を得たり’といった気持ちになるのです。

 以前、「なぜ人を殺してはいけないか」といった問いが、マスコミで話題になり、今でも若い人たちはこの問題について、しばしば取り上げていて、さまざまな意見が出されています。

 そして、その意見に接すると本当に十人十色、さまざまな意見が飛び交い、ひとつの答えを導き出すことの難しさを感じています。

 なぜいろんな答えが、返ってくるのでしょう。それは‘理屈’で答えを出そうとしているからだと思うのです。言い換えると、倫理、あるいは道徳、といった観点から見ようとしているから。

 社会規範として、考えようとすると、個人個人で、育った環境が違い、体験を通しての知識も異なり、また性格や能力にも左右されるので、答えがひとつにまとめられない、ということではないでしょうか。

 なぜ人々は‘感情’をおろそかにするのでしょう。忘れているのでしょう。

 たぶん現代人は利口になりすぎたのです。

 人の感情には、他を思いやる心‘やさしさ’があり、また、自分を苦しめたあいつは憎い、といった気持ちや、そこから起こる残酷な心があります。

 そして、人を殺すという行為は、その残酷な心がするのであり、他者を思いやる心‘良心’がするのではない、と言う事は誰もが承知しているのです。

 でもそこのところを見落としている、という事に気づいてほしいのです。

 善と悪。

 神や仏は人の好ましいほうの心の象徴、煩悩あるいは悪魔は人の好ましくないほうの心の象徴。

 となれば、人を殺すという行為は、好ましくない心の為せる事なので、悪いことである、と言って良いかと思います。

 哲学される人には不満でしょうけど。

 また冒頭に紹介したお坊さんの「宗教上の精髄は感情にあり」という言葉は、もっともっと広い意味で仰られているのでしょうが、日ごろ‘感情’について思うことがあり、述べてみたくなりました。

                            次回へ

 

 

 

 

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