神や仏の心
或るお坊さんの文章を紹介してきて、しばらく経ちますが、久方ぶりに私の浅薄な考えを、ここに記してみようと思います。
宗教といえば神、そして仏ということになります。
仏という言葉には善的な要素しか含まれていないように思いますが、人が死ねば仏に成ったという受け止め方もあり、また、神となるとどうも悪の神と云う様な表現も可能なように、曖昧な感じがします。
ですから敢えてここでは好ましいほうの心、その世界のシンボルとして、それを神や仏と定義しておきたいと思います。
この世は二面性という特性があるように思うのです。
表と裏。此の世とあの世。(これは現実の世界と架空の世界という受け止め方も出来るかも)。そして物質と精神。といったような。
そして精神の世界も、善と悪。神と悪魔。大悟に煩悩。
そこで宗教が受け持つ精神世界の、善の世界をめざして、がんばりましょうというメッセージを伝えたく思います。
心は使うほどに育ちます。皆さん、気づいていますでしょうか。
肉体は使うほどに鍛えられ、また発達し、使わなければ退化していくことを、誰でもが知っています。
同じように心も使うほどに育つのです。好ましい心も、好ましくない心も。
悪い行いをし続けていると、だんだんそれがエスカレートしていって、以前にはためらうような行いが、今は平気でできるようになっていた、と云う様なことは誰もが体験しているのではないでしょうか。好ましくないほうの心が育ったのです。
同様に好ましい心も、使うほどに育つのです。
たとえば偽善ではないかと思うような、また思われるような行いも、しないよりしたほうがよいように思います。
そのうちに、偽善かもしれないなどと思うことなく、それが当たり前のこととして、行えるようになっているはずです。
好ましい心が育ったのですね。
例えば、腕立臥せが3回しかできなかったのが一週間もやってみれば十回ぐらいは出来るようになります。そうなると3回4回は単なる通過点でしかなく、苦も無く出来ますが、筋肉が付いたからですね。
同じように、好ましい心が育てば、良い行いをしていると云う様な意識など、持つことなく普通に行動できるようになるのです。
このことは生活全般に当てはめることが出来ます。好ましい生活、生き方、をするということは好ましい宗教的生き方といえるのではないでしょうか。
ことさらに信仰生活を送ろうと、特別なことをしなくても、好ましい生き方をする事が、宗教的生き方だと受け止めてよいように思えるのです。
これからの宗教は、いわゆる‘信心’というものから、開放されるべきだと思っています。
もう少し考えを深めて、次回へつなげてみます。
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