« 業識(生命の力) | トップページ | 心霊不滅 »

2009年1月 2日 (金)

霊魂の滅、不滅に就いて

【明治から大正にかけて活動されたお坊さんの文章(現代のお経では?)を紹介しています】

 いわゆる霊魂の滅不滅に就いては世間にやかましき問題である。

 その霊魂の不滅の真理を諦(あきら)かに証明し得る法を講説すると云わば、この真理を体得せぬ人より見ればいかに思うか知らぬ。しかしこの問題は今に初めての発見ではない。這般(しゃはん)の大問題を一刀両断に快断したるは吾(わ)が大聖釈尊である。

そもそも聖者釈尊が入道の動機はこの大問題である。彼れ王宮にありて人間最幸福の栄を生まれながら受け得るにもかかわらず、老病死を見て世の非常を悟り、つらつら惟(おもん)みれば人生の果敢(はか)なき事、実に夢幻(ゆめまぼろし)の如し。

老病死苦は貴賎を論ぜず。無常苦空は賢愚を択(えら)ばず。ひとたび生をここに受けたる者、何人かこの法則を免るるもの有らん。我、如何にしてか人生の真理、秘密の奥を究めて生死の源を明らめ、永遠不滅の生命を発見し自ら度し且(か)つ一切を度せんとの大願は、彼の悉達(しった)王子が人間の栄耀を顧みず、独り超然として入山学道の志を奮起せし所以である。

その志願を洩(も)れ承れる臣下の族(やから)より諌(いさ)め告げる者あり曰く、太子よ、御発心(ほっしん)の事については、古(いにしえ)より或いは死後の霊魂は無しといい、或いは未来に滅せずという。いまだ一定したる説なし。凭(かか)る未来の問題に苦しんで、現に受けつつある幸福を捨てるは惜しむべきにあらずやと。

太子曰く、我は死後の有無の問題に就いて発心したるに非ず、然れども今現に我は生死の闇に捕らえられたる奴隷たることは確かである。如何に生死の闇を破って不滅の大光明を発見せんというが、我が志す所の目的である。もし永遠不滅の大光明を発得したならば、一切衆生を同一の光明界に摂取せんとの志願であると。

彼が金剛の志は何人(なんびと)も止(とど)むるに由(よし)なく、ついに奮然として王城を飛び出し入山修行し、初めアララ(修行僧?)等の老仙に解脱の道を問いしかども、未だ自己の理想を満足する能(あた)わず。

独り自ら伽耶(がや)の森林に在りて鍛錬苦行六年の後、ついにヒバラ樹の下、金剛座に端坐し四十九日禅那三昧に入りて、一夜大魔王の内外より侵逼(しんひつ)し来たるを不動の念、迅正(じんしょう)に降伏し大雷強電の夕立の晴れ渡りたる後、一層天月の清涼たるの感あり。

朧月(ろうげつ)八日の明けの明星ほのかに出(いず)る時、金剛座に入って無始の無明朗らかに断尽(だんじん)し、朗然(ろうねん)として正覚の心光、赫躍(かくやく)としてあまねく十方三世を照らして遺すことなし。

ここに於いて、無明生死の源を尽くし煩悩の根を切断し、永劫常住の大涅槃を証得し給えり。即ちこれ、無上正等正覚を得たるなり。初めて生死の大問題を解決し、不滅の真理を得たり。

 仏陀自ら永遠不滅の大光明を得たる仏眼を以って、一切衆生を視給ふて依然として歎じて曰く、奇哉(きなるかな)一切衆生自己と同じく一切無師自然智本自具足して仏と異なること無し。我、如何にして衆生の仏知見を開示して、我と同じく不滅の聖者たらしめんと。そもそも此れ釈尊仏教を以って一切を度するの目的ここにあり。

今、弁栄(べんねい)【この文章を書かれたお坊さんです】身を末世澆季(まつせぎょうき)に受く性拙く身劣るも霊性は同じく毘盧(びる)の分身なり。

 旭日耀然として世を照らす。戸窻(こそう)開く処に、金殿玉楼の牖(まど)のみならんや仮令(たとへ)茅屋草慮(ぼうおくそうろ)たりとも、窻(まど)の開く処に日光の射入する事何ぞ異ならん。心霊開示し永遠不滅の大光明を我が同胞と共にせん事を希(こいねが)う。

                        次回へ

|

« 業識(生命の力) | トップページ | 心霊不滅 »

学問・資格」カテゴリの記事

宗教」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/461377/26724331

この記事へのトラックバック一覧です: 霊魂の滅、不滅に就いて:

« 業識(生命の力) | トップページ | 心霊不滅 »