2008年11月29日 (土)

生命は一体その3

【明治から大正にかけて活動されたお坊さんの文章を紹介しています】

有核生物と為れば核は遺伝の決定素にて、芽胞を構造したりまた成長させ、また細胞活動の連鎖をなせる故に、核は生命の住処である。核の外部はただ生命を扶助する外胞にて、保護の機関に過ぎぬ。生命は核に有るので、分殖するは核が二個に分かるる訳である。然(しか)る時は両方共に外包が出来るのである。

然(しか)して雌雄両性と別るるように成っては、核もまた多数となりて各分業的に掌(つかさど)る処が定まる。生殖を掌る雌(し)と雄(ゆう)との両方の核が、相合(あいがっ)して始めて一個の生命となる。それが即ち父母の間に成りたる子である。核は親の遺伝決定素を有(もっ)ている。而してその子に伝ふ。そうすると子もまた親と同じく、外包に保護せられて核の生命を保存す。生命の坐所なる核は肉体を離れても、子孫に分かれて同一の生命を存続する。親に宿れる生命が、元形質の核を以って子となり、この核が長久の生命にて外包は幾億に替われども、核の生命は永久に存続し、有目的の如くに生物が進化す。原始生物の元形質に伏蔵する性能は、代々に進化の務めを以って居るように感じらるる。親の徳性は核中に含蔵して、之を子に遺伝し核に有(も)てる丈に、外包の身体は構成せらる。

人類に至っては核細胞中に種々雑多に嵌込(はめこみ)式に含蔵して、精子卵子の合体が胎児と成り種々の嵌め込みから、芽発し始め原始生物の虫的の形から、また芽が出で茎から枝と云うように、細胞の分裂の位が階級的に各々(おのおの)特殊的に引き出されて、五体五官等の一定の部分と為り、親の生命及び外包が子と成り、その本は一体の分身にしてこの分身作用からして、世界中に弥漫(びまん)して幾億万と成ったのである。

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生命は一体その4

【明治から大正にかけて活動されたお坊さんの文章を紹介しています】

斯(か)く科学的に生命を説明する臆説は種々あれども、然るに生命なるものは生物学的に、或いは化学的にのみにては説明し尽くされざるものあり。炭酸水窒の元素を調合し電熱等の分子を加えたればとて、生命の原形質を造る事は不可能ならむ。物質方面のみの学者は、生命の主体の何たるを考えぬ。が併(しか)し人は幼より老に至るまで統一の主体あり。生命の実質には自発的活動と、統一の主体と有目的性とがありて、ただ物質の精妙の結合物とは想われぬ。

生命の主体なる我はただ化合物にあらず。矢張り本体は宇宙の真霊そのものである。吾人の生命は根底に於いて連絡を断つ事はできぬ。生命は実に不思議中の不思議なるもの。宇宙全体の絶対的生命なるものを立てて、吾々個々は同一の本体より分受したるものと認めざるを得ぬ。故に一切の個々は互いに連絡して、断(た)ゆることの出来ぬ関係を有している。

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2009年1月 1日 (木)

業識(生命の力)

あけましておめでとうございます。本年(2009)もよろしくお願いいたします。

【昨年に引き続き、明治から大正にかけて活動されたお坊さんの文章を紹介していきます。ここに紹介する文章は、現代の‘お経’ではないかとひそかに思っています】

業識(生命の力)

 人生の個々生命の主体を、内的生活の精神の方より説明せば、仏教には自我、即ち識を説明するに、小乗の浅教より大乗教に至るまで階級あり。

 大霊の分子たる心性を伏蔵する、極少の心生命を無明という。また業識と名づけ、また阿頼耶識と名づく。この阿頼耶識を伏蔵する有機生命は、原形質に存在する。これが極少生命の体である。無明業識という活ける気を衝気(しょうき)という。即ちこの気が活きんと欲する気、この衝気業識が生命の主体であるから、自発的に活動し活きんと欲する気がある。統一的自治体を為す。また有目的に活動している。この蠕動(ねんどう)たる小物生命力に伏蔵している性能が進化の結果は、人間の智力、感情、意思等のごとき、また五体五官のごときもその微小の伏蔵から進化したるに過ぎず。

 生物衝気は、活きんと欲する意力。この活きんと欲する衝動力に貧瞋痴(とんじんち)の三能力を有している。初めは嚮動(きょうどう)的欲動的より進んで人間の意思と進化する。生物の活きんとする目的には食物の栄養の欲、種族保存を目的とする生殖欲、また身体の休息を要する睡眠欲、これら生物の本能に持っている。自己の生命保存の為には自己の害に抵抗する力を憤怒とす。生の衝気の目的に従い盲進するを痴という。意識的生活までに進まざる動物には本能的に貧(とん)と瞋(しん)と痴との力を以って生活す。食欲色欲睡眠欲は衝気の目的を満足する故に快感あり。この気に違逆する境遇は憤怒防禦(ぼうぎょ)し敵し難き時は畏怖を感ず。みな無明業識の働きなり。

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2009年1月 2日 (金)

霊魂の滅、不滅に就いて

【明治から大正にかけて活動されたお坊さんの文章(現代のお経では?)を紹介しています】

 いわゆる霊魂の滅不滅に就いては世間にやかましき問題である。

 その霊魂の不滅の真理を諦(あきら)かに証明し得る法を講説すると云わば、この真理を体得せぬ人より見ればいかに思うか知らぬ。しかしこの問題は今に初めての発見ではない。這般(しゃはん)の大問題を一刀両断に快断したるは吾(わ)が大聖釈尊である。

そもそも聖者釈尊が入道の動機はこの大問題である。彼れ王宮にありて人間最幸福の栄を生まれながら受け得るにもかかわらず、老病死を見て世の非常を悟り、つらつら惟(おもん)みれば人生の果敢(はか)なき事、実に夢幻(ゆめまぼろし)の如し。

老病死苦は貴賎を論ぜず。無常苦空は賢愚を択(えら)ばず。ひとたび生をここに受けたる者、何人かこの法則を免るるもの有らん。我、如何にしてか人生の真理、秘密の奥を究めて生死の源を明らめ、永遠不滅の生命を発見し自ら度し且(か)つ一切を度せんとの大願は、彼の悉達(しった)王子が人間の栄耀を顧みず、独り超然として入山学道の志を奮起せし所以である。

その志願を洩(も)れ承れる臣下の族(やから)より諌(いさ)め告げる者あり曰く、太子よ、御発心(ほっしん)の事については、古(いにしえ)より或いは死後の霊魂は無しといい、或いは未来に滅せずという。いまだ一定したる説なし。凭(かか)る未来の問題に苦しんで、現に受けつつある幸福を捨てるは惜しむべきにあらずやと。

太子曰く、我は死後の有無の問題に就いて発心したるに非ず、然れども今現に我は生死の闇に捕らえられたる奴隷たることは確かである。如何に生死の闇を破って不滅の大光明を発見せんというが、我が志す所の目的である。もし永遠不滅の大光明を発得したならば、一切衆生を同一の光明界に摂取せんとの志願であると。

彼が金剛の志は何人(なんびと)も止(とど)むるに由(よし)なく、ついに奮然として王城を飛び出し入山修行し、初めアララ(修行僧?)等の老仙に解脱の道を問いしかども、未だ自己の理想を満足する能(あた)わず。

独り自ら伽耶(がや)の森林に在りて鍛錬苦行六年の後、ついにヒバラ樹の下、金剛座に端坐し四十九日禅那三昧に入りて、一夜大魔王の内外より侵逼(しんひつ)し来たるを不動の念、迅正(じんしょう)に降伏し大雷強電の夕立の晴れ渡りたる後、一層天月の清涼たるの感あり。

朧月(ろうげつ)八日の明けの明星ほのかに出(いず)る時、金剛座に入って無始の無明朗らかに断尽(だんじん)し、朗然(ろうねん)として正覚の心光、赫躍(かくやく)としてあまねく十方三世を照らして遺すことなし。

ここに於いて、無明生死の源を尽くし煩悩の根を切断し、永劫常住の大涅槃を証得し給えり。即ちこれ、無上正等正覚を得たるなり。初めて生死の大問題を解決し、不滅の真理を得たり。

 仏陀自ら永遠不滅の大光明を得たる仏眼を以って、一切衆生を視給ふて依然として歎じて曰く、奇哉(きなるかな)一切衆生自己と同じく一切無師自然智本自具足して仏と異なること無し。我、如何にして衆生の仏知見を開示して、我と同じく不滅の聖者たらしめんと。そもそも此れ釈尊仏教を以って一切を度するの目的ここにあり。

今、弁栄(べんねい)【この文章を書かれたお坊さんです】身を末世澆季(まつせぎょうき)に受く性拙く身劣るも霊性は同じく毘盧(びる)の分身なり。

 旭日耀然として世を照らす。戸窻(こそう)開く処に、金殿玉楼の牖(まど)のみならんや仮令(たとへ)茅屋草慮(ぼうおくそうろ)たりとも、窻(まど)の開く処に日光の射入する事何ぞ異ならん。心霊開示し永遠不滅の大光明を我が同胞と共にせん事を希(こいねが)う。

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心霊不滅

【明治から大正にかけて活動されたお坊さんの文章(現代のお経では?)を紹介しています】

 今現在の自我、即ち霊魂なるものは、大宇宙の一分子たることは否定せられぬ。己を見れば宇宙と自己とは、凭麼(いかん【どのような】)の関係を持っている哉を考え見よ。我(わが)生命なるものが全体の宇宙なくては、生存も出来ぬということも疑われぬ。我ら産出されたる分子に、心霊あり生命ありとすれば況(いわん)やその生み出すところの大親に、大霊あり大生命なくてなならぬと云わざるをえぬ。

吾人は宇宙は絶対の大霊大生命であると云うに憚(はば)からず。否仏教は盛んにその真理を教えるのである。これを法身ビルシャナと云う。大なる宇宙は大なる如来である。産出する大御親の如来心と産出されたる分子の衆生心との区別と連絡を図に示せば

  衆生心━━相対的━━生滅━━有限━━小我

  如来心━━絶対的━━不生滅━━無限━━大我

衆生なるものは生まれた者は必ず死す。故に生滅変化なる事は、一般の実験するところ、宇宙全体としては絶対なるものは、無始無終にして過去も無際、未来も無窮なれば、小分子たる衆生の有限を以って、宇宙の本体が滅するか不滅なるかは、測り知ること能はず。絶対なるものには滅すという事は云われぬ故に、不生不滅と云って差し支えない。

 絶対の大霊と分子なる小霊、即ち人の心とは、恰(あたか)も水と浪との例の如く、水は浪にあらざるも浪は水を離れては無い。外見すれば衆生は生滅の生物なれども、本来不滅の大霊を離れて存在は出来ぬ。然らば生滅の衆生心と不生滅の大霊とは、その裏面に於いて不可離の連絡を持っているに相違ない。カント等も云っている。吾人が僅か八十年の生命は永恒不滅の大生命の一分現象であると。

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2009年1月 3日 (土)

心霊不滅 2

【明治から大正にかけて活動されたお坊さんの文章(現代のお経でしょうか?)を紹介しています】

吾人が心も《吾々人の心も》仏教では如来蔵性と云い、絶対無限の大霊を根底として居ると云うのである。故に衆生心には生滅不生滅の二面が有る。一面より見れば生滅なれども、その裏面の一方には不滅の大霊と連絡している。故に霊魂とは、霊は不滅に名づけ魂は生滅の方に呼ぶのである。

もし唯生滅の一方のみ見れば、人は死すれば全く滅したと云うも差し支えないけれども、其の根底の一面には不滅の根がある。野の芝草が冬枯れ蔵(おさ)まって、枯れた方は滅したけれども、蔵(おさ)まって居る根底は生命をもっている。儒教などで人の魂魄は天地に稟(う)けたる精気である。陽気が集まりて魂(こん)となり陰気が凝(こ)りて魄(はく)となり、即ち活ける人の魂魄である。

もし人死すれば魂魄は本の気に分散す。故に遺(のこ)る物なしと。蓋(けだ)し、草の枯れたる方から見たのである。また仏教にて地水火風空の本に還ってでも不滅の霊は存すと云うは、草の蔵(おさ)まりたる根の方より云うのである。いずれも互いに非難すべきでない。

 吾人の心霊生命が意識的に生存せるは、宇宙の大霊的大電気の連絡から、吾人の意識生命と現われたる電燈である。八十年の間元気よく燈(とも)ってついには発電の連絡線が截(た)たる時に、意識的生命の明かりは消滅したるも、宇宙の大霊電は永遠に滅せぬのである。

 さて理屈は置いて実地に証明するところに真理の証明が立つのである。これが仏陀五十年間専心誠意宣伝に力(つと)め給いし道である。

 要するところは生滅の小我と不滅の大我と精神的に合一するところにあり。此れに就いて二途(ふたみち)あり。一は能動的に他は所動的である。甲は自心の最大根底なる如来心を自ら敢えて開発して、自己を空間的にも時間的にも飽くまで膨張して、絶対無限に至る自己心中の宇宙と為すのである。

他は、本来絶対の大霊は永恒本然、自己はその分子なれば大霊を離れて我なし。我は大我の分子なれば、我を大霊に投帰没入して忽(たちま)ちに復活して、大霊を本体と為したる我となる時に不滅の霊となる。甲乙入門を異にするも帰する処大小合一するは一致なり。

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2009年1月17日 (土)

心霊不滅 3

【明治から大正にかけて活動されたお坊さんの文章を紹介しています。現代のお経ではないかと思っています】

 実相論的に衆生に、生滅と不生滅との二種ある事を説かば、天台は実相論である。空間的である。先ず、宇宙大霊の分子たる衆生心に、本然(ほんねん)として迷悟善悪十界の性能、具(つぶさ)に具す。即ち衆生心に生滅する方と不生滅との両面ありて存す。然(しか)れども不生滅の仏慧(ぶつえ)の性、本然有(も)っておりながら自覚せぬ故に、生死に流転するものを迷いの凡夫と云い、之を六道と云う。

 彼等は不生滅の性(しょう)を有って居ても、開示し悟入する事をせぬ故に、唯(ただ)生滅の方にのみ迷うて惑(まど)いて業を造り、業の勢力に縁(よ)りて生(しょう)を享(う)く。迷いの中(うち)に於(お)いても、自ら因縁に随(したが)って善と悪との業に軽重ありて、三悪三善道と分かるるのである。生(しょう)また業を造り死また生(しょう)を招き輪廻止む事なし。之を生滅に迷う衆生と云う。

 四聖法界(ししょうほうかい)とは声聞(しょうもん)、縁覚(えんかく)、菩薩(ぼさつ)、仏(ぶつ)である。衆生が自己の心霊の根底に不滅の霊性、具(ぐ)するを覚知し、仏陀先覚者の教えを聞き、生死の苦の源を諦(あき)らめ、苦の本(もと)は煩悩であると煩悩を断じ、寂滅涅槃即ち不滅の霊界を諦(たし)かめ、此れに入らんとするのには真空無我の道を修(しゅう)せねばならぬと、ついに煩悩の生死の小我を滅して、真空無我の涅槃不滅を証得したるを羅漢と云う。

 天台には、自己の心性本自百界千如一念三千具足するも、開示して仏慧(ぶつえ)現前する時は、仏陀と同じく証(さとり)なれども次第六即あり。正(まさ)しく信じ得る時は、早晩仏性現前すべし。

 若(も)し人の心性(しんしょう)を両断せば、滅と不滅との二性(にしょう)である。肉我の主として諸煩悩に依るの生命は、必ず滅に墜(お)つ。若し霊性に随って生活せる者は、永遠不滅に向かう。前は迷者暗黒の生活、後者は悟者光明の生活なり。前者のみ発展せるものには、人は死すれば滅する者と思う。永遠の生命未だ現前せざる故なり。霊性現前すれば自ずから信認す、自霊永遠不滅の真なる事を。昨日まで自己の不滅を信ぜざる者も、若し一度(ひとたび)大霊の光明に接して霊性現前せんか、忽(たちま)ちに永遠不滅の真理を信じて疑わざるに至らん。

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2009年2月12日 (木)

宇宙の大法と目的

【明治から大正にかけて活動されたお坊さんの文章を紹介しています。現代のお経ではないでしょうか】

 吾人は一切の万物と共に宇宙の大法則を離れて存在は出来ぬ。また宇宙の大勢力に由らずして生活は得られぬ。宇宙は何を目的として吾人を此の世に生死せしむるならん。

 古来宇宙には目的ありや無しやの問題について種々説あり。一切の人類の如きは本(もと)神より出でたるも、ひとたび神に背きたる罪は子孫まで遺伝し、如何なる人も罪なきは無かりき。故に暗黒に堕する事免(まぬが)れざりき。己が罪を自覚して神の光に救霊せられたる者は、永く神と共なる事を有べきなり、との説もあり。

 また宇宙を唯物的、機械的に見ている学者あり。それらは宇宙に神なるものありて、その目的に世界を成し得るものでないと。また一方には宇宙は人智を以て、測るべからざる神が存在し、その神の法則に随い神の聖意に契(かな)う時は、永遠に帰趣する事が出来るものであると。

 仏教に宇宙終局の目的が存するや否やというに就いて二あり。一は大法に随う時は成仏すると。他は宇宙の目的即ち如来の力に依って済(すく)はるゝとの二あり。

 宇宙の大法に随順するは、即ち法性(ほっしょう)の理に随うことにて、若し法性の理に順(したが)う時は、終(つい)には法性の中(うち)に証入することが出来る。換言すれば人は神から禀(うけ)たる神の性を有(もっ)て居るから、神の聖意に随い神の真理に契(かな)う様にせば、神の国に入り神と共に生活する事が出来ると、又更に換言すれば、人は本(もと)、真如から出たものであるから真如に迷うて居るから、凡夫であるけれども、若し迷いを翻(ひるがへ)して真如と一致する時は即ち仏であると。

 仏法は本来、宇宙の大法である。真如より迷いたる衆生を、本の真如の都に帰す真理法が即ち仏教である。

 真如を如実に覚悟なされたのが即ち仏陀である。一切の衆生を真如の本覚に証入するの大法は、本然として常恒(じょうごう)に存在して永遠に変易(へんえき)することなし。

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宇宙の大法と目的 その2

【明治から大正にかけて活動されたお坊さんに文章を紹介しています。現代のお経ではないかと思っています】

 法界等流の仏法は自然の法と共に、常に存在するけれども、それを知らぬが凡夫である。人仏の釈尊が此の世に出でようとも、出でざるとも、決して替わりはせぬ。唯、常恒(じょうごう)存在の真理を釈尊は自覚して、而して一切の人類を覚らしめるのである。

 故に経に有仏、無仏、性相常住とて宇宙の大法は本来常住なもので、釈尊が構造いたしたのではない。如来はただ真理を自ら発見なされたのである。例えば地球の運動は、ガリレオの出世(しゅつせ)以前より、常然として運転して居ったのである。地球は太陽を中心として私転公転している。その理をガリレオが発見したのである。がガリレオの世に生まれぬ昔から地球は運転して居った。それの如くに仏法は本来常住にて、即ち宇宙の真理が衆生と合致して衆生に正覚の光を為さしむ。真理を発見なされたのが釈尊である。

 また釈尊は大霊の人格現として、衆生を自覚せしむる法を教えんが為に、世に出でなされたのである。故に法華経に諸仏如来が、此の世に出現したる一大事の因縁は、人々が本具して居る仏知見を開きて、仏の正道に悟入せしめんが為に世に出で給うたのであると。禅家の直指人心見性成仏とて、人々(にんにん)本具して居る仏の性が開顕する時は、自分が是(これ)仏であると。すべて自力宗と云う方は、吾人が本(もと)大霊と連絡したる霊性を有って居るが、自ら迷うて此の霊性を顕わさぬから凡夫である。

 此の霊性が開顕する時即ち仏である。霊性を開発する理法を仏法というのである。仏法の本体は宇宙大法にして、法爾法然として宇宙に存在す。此の真理を一切衆生に開示せんが為に諸仏は世に出現し給う。

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2009年2月14日 (土)

宇宙の目的

 【明治から大正にかけて活動されたお坊さんの文章を紹介しています。現代のお経のように思っています】

 宇宙に目的ありと見るは、宇宙の能力即ち働きの結果は、必ず終局の目的に至ると云うので、大霊の力用(りきゆう)から人格的の仏を出現して心霊界の太陽とし、斯(か)く大霊には不可思議の力用ありて、人格的の仏(ぶつ)として人類を摂して、終局目的の霊界に帰趣せしむるを云う。此れは大霊の力に基づく。

 また被救者(すくわるゝもの)の方から云うも、大霊目的と言う力は恰も天の太陽の光を以て、地上の動物植物を化育する如くに、如来は心霊界の太陽として、人類の心霊を霊化して、罪悪深重の凡夫を救霊して光明の生活に入らしめ、煩悩の罪悪を化して霊的に為し給う働きである。

 浄土教の如く弥陀の本願力、一切の人類を光明中に摂して、この心光に触(ふ)るる者は、正定聚(しょうじょうじゅ)の位に入りて、光明生活に為らしめ給うと云う如きは、大霊の目的を顕はす処の宗教である。

 右の二教は前のは自己の霊性開発すれば、大霊と合致する故に、大霊と自己と一体であると悟ったので、後のは衆生は罪悪生死の凡夫であるが、如来の大願霊力の光に霊化するときは凡夫の煩悩も化して、霊態と為りて自ずから心の内容が如来と同化すると云うのである。故に宇宙の法則(ほっそく)と力能とが、衆生の心を開き仏(ほとけ)に化する力用(りきゆう)である。

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自己の伏能なる霊性を開発して正当に生活す。

 【明治から大正にかけて活動されたお坊さんの文章を紹介しています。現代のお経ではないかと思っています】

 前にすでに示弁(じべん)したる一切衆生悉有仏性とて人々仏と成り得らるる性は本来具有す。

 全体人の性と云うものは、仏に成る性が本来具有するものを開発すると云う立義(りゅうぎ)と、また一方には人の性は本来罪悪のみで、神の性は具有するものでないと云う立義とあり。前(ぜん)のに依れば、人が本来有(も)って居る霊性を開発しさえすれば、自分が即ち仏であると、是は前(ぜん)に自力宗と云う方なので、大霊と霊性に於いて合致するを云うので、総ての人の本性は罪悪ばかりで、神性具有せずと云う方は、自己というものを消極的の悪しき方のみに見て、而して悪しき方を消して善に作(な)らしむる為なのである。

 基督教(きりすときょう)では、人の身と心と別けて人の肉体は全く悪のみで救わるる物でないと云い、心は本来罪悪では有るけれども神に救わるる性は有(も)って居ると云うている。

 仏教には両主義ありて、本来具有している霊性開発すれば成仏し得ると云うのと、また凡夫は本罪悪なれども、如来の光明に同化せられて、仏の意(こころ)を自己の意(こころ)と為(す)れば煩悩も霊化して見れば菩提である。渋柿の実も甘乾(あまぼし)と代わるのであると。

 冷静は本来具有しているけれども、開発しなければ顕れぬ。喩(たと)えば鶏卵(たまご)が孵化しなくては、鶏と成ることは能(でき)ぬ。霊性の卵を暖めて孵化するのが、即ち仏法である。如何に外部から暖めても自己に霊性が本来具有して居らぬものなれば、仏に成ることは出来ぬ。

 帰する処、人々本来具有の仏性を開発して仏と為す大法が即ち仏法である。本来我々は仏の子である故、親の恵(めぐみ)だに享(う)くる時は必ず、親と同じく仏に成ることが出来る。

 華厳経に仏子一衆生として見るに、如来の智慧あらずと云うことなし。但し妄想執着を以て証得せず。若し妄想を離るれば、一切智(いっさいち)、自然智(じねんち)、無碍智(むげち)即ち現前することを得、またそのとき如来普(あまね)く法界一切衆生を観(かん)じて、而してこの言を作(な)し給う。奇哉(きなるかな)、奇哉、此諸衆生如何具(このもろもろのしゅじょういかんがぐ)するに如来智慧(にょらいちえあり)、迷惑不見(めいわくしてみず)。我当(われまさ)に教ふるに聖道を以てし其れをして、永く妄想を離れ自ら身中に如来広大智慧、仏と異(ことな)ること無きを得せしむと。

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2009年3月15日 (日)

神や仏の心

 或るお坊さんの文章を紹介してきて、しばらく経ちますが、久方ぶりに私の浅薄な考えを、ここに記してみようと思います。

 宗教といえば神、そして仏ということになります。

 仏という言葉には善的な要素しか含まれていないように思いますが、人が死ねば仏に成ったという受け止め方もあり、また、神となるとどうも悪の神と云う様な表現も可能なように、曖昧な感じがします。

 ですから敢えてここでは好ましいほうの心、その世界のシンボルとして、それを神や仏と定義しておきたいと思います。

 この世は二面性という特性があるように思うのです。

 表と裏。此の世とあの世。(これは現実の世界と架空の世界という受け止め方も出来るかも)。そして物質と精神。といったような。

 そして精神の世界も、善と悪。神と悪魔。大悟に煩悩。

 そこで宗教が受け持つ精神世界の、善の世界をめざして、がんばりましょうというメッセージを伝えたく思います。

 心は使うほどに育ちます。皆さん、気づいていますでしょうか。

 肉体は使うほどに鍛えられ、また発達し、使わなければ退化していくことを、誰でもが知っています。

 同じように心も使うほどに育つのです。好ましい心も、好ましくない心も。

 悪い行いをし続けていると、だんだんそれがエスカレートしていって、以前にはためらうような行いが、今は平気でできるようになっていた、と云う様なことは誰もが体験しているのではないでしょうか。好ましくないほうの心が育ったのです。

 同様に好ましい心も、使うほどに育つのです。

 たとえば偽善ではないかと思うような、また思われるような行いも、しないよりしたほうがよいように思います。

 そのうちに、偽善かもしれないなどと思うことなく、それが当たり前のこととして、行えるようになっているはずです。

 好ましい心が育ったのですね。

 例えば、腕立臥せが3回しかできなかったのが一週間もやってみれば十回ぐらいは出来るようになります。そうなると3回4回は単なる通過点でしかなく、苦も無く出来ますが、筋肉が付いたからですね。

 同じように、好ましい心が育てば、良い行いをしていると云う様な意識など、持つことなく普通に行動できるようになるのです。

 このことは生活全般に当てはめることが出来ます。好ましい生活、生き方、をするということは好ましい宗教的生き方といえるのではないでしょうか。

 ことさらに信仰生活を送ろうと、特別なことをしなくても、好ましい生き方をする事が、宗教的生き方だと受け止めてよいように思えるのです。

 これからの宗教は、いわゆる‘信心’というものから、開放されるべきだと思っています。

          もう少し考えを深めて、次回へつなげてみます。

 

 

 

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2009年4月18日 (土)

悪をなさず善きを行なう

 悪いことはするな、善い事を行なえ。と釈尊は仰ったようです。

 法句経(183番)に

 もろもろの悪(あしき)をなさず もろもろの善(よき)を行なう

 おのれのこころを淨(きよ)くす これ 諸仏の教えなり (七仏通誡偈)

 というのがあります。

 これは百一歳になられてなお活躍中の松原泰道氏の訳です。いまから35年ほども前に氏が「法句経入門」というタイトルで出版した本(祥伝社・NONブック)にあります。当時ベストセラーになりました。

 釈尊はなぜ悪いことをするな、善い事を行なえと仰ったのでしょうか。

 人生を深く考える人、‘哲学’される人は、様々な事例を挙げて説明されることでしょう。でも私にはそうした頭脳も知識もありません。

 したがってごく浅い解釈に、そしてあっけない結論になってしまいますが、次のように受け止めています。

 心は、肉体と同じように使えば使うほど育つから、発達するからだと。

 自分の好ましいほうの心が、好ましくないほうの心より勝ってくるにつれ、心持が明るく、また軽くなるような気がしませんか。そんなときは姿勢も正しく、気分も前向きとなり、悪いことなど考えるようなことはしないものです。

 そこで私が強調したいのは、好ましい状態のときの心持を、心地よさを味わって欲しいのです。意識して実感して欲しいのです。

 この心地よさ、好ましいほうの心の喜びは神や仏の心、神や仏がいま喜んでいるんだなぁと思ってもよいのではないでしょうか。

 なぜならば神の心と人の良心(やさしさとか)は同質と思えるからです。

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2009年4月25日 (土)

好ましい心を感じ、そして味わいましょう。

 心理といえば、人の心の作用のことであります。

 宗教といえば、神や仏の世界のことでしょう。

 でも悪魔の宗教なんてのもありますね。

 神や仏は善の世界の象徴であり、悪魔といえばそれこそ悪の世界の象徴でしょう。

 そして人の心にも好ましい心があれば、好ましくない心もあります。

 人の心には神や仏の善の心も、悪魔の心もあるということ。ということは、神や悪魔の世界と人の心は同質とみてもよいのではないでしょうか。

 善=好ましい心とは、感情的には、やさしさとか、思いやりとか、他者を思いやる心ですね。

 理性的には、道徳心といったものでしょうか。

 意志的には、自分を向上させようという、また他者をも向上させようという、向上心といったものかと思います。

 だから好ましい心が好ましくない心より勝っていれば、人は好ましい生き方が出来るように思います。

 好ましい精神状態のときは、心は明るく、軽く、姿勢も正しく、自分の行動に言い訳をするといったことがありません。

 胸を張って堂々としていられるのです。

 ここで私が強調しておきたいのは、この心持をよく味わって欲しいのです。

 この心地よさをよく感じて欲しいのです。

 何も特別な時間を作らなくても、日常の生活の中で常にこのような心持を味わい、感じることが、これからの好ましい宗教的生き方だと受け止めたいのです。

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2009年6月 4日 (木)

釈尊出世の本懐(しゃくそんしゅっせのほんかい)

 【釈尊の残されたお経は、二千年以上も前のものらしく(不勉強なのです)、方便という方法で、弟子たちをを導こうとしているように思います】

 【その釈尊が入られた悟りの世界に、その世界に入られたのではないかと思われるお方が、この日本に現れました。そのお方は明治から大正にかけて活動された、浄土宗系のお坊さんです】

 【そのお坊さんが現代のお経ともいうべき言葉を文章に残しております。その文章は、方便という形ではなく、現代人もうなずけるような、たとえを持って仏の心を、真理を語っているように思えるのです】

 【例を挙げれば、『渋柿も太陽の光に当たれば、甘柿となるように、人の心の煩悩も仏の光を受けることによって清き心となる。煩悩即菩提である』といったように】

 【その現代のお経とも言うべき文章に接してほしく思い、ここに写し取りたいと思います】

     釈尊出世の本懐。

 釈尊この世に出(いで)ましなされて、生涯にわたってもっぱらお力を尽くしなされた御本懐(ごほんかい)は、那邊(なへん=どこ)にありやとなれば、それは世のもろもろの衆生が、心の闇と悩みと罪とにより、闇のうちにさまよいあるを哀れみ、すべての人類を明るきと安(やすき)と聖(きよ)きに復活させ而(しか=そう)して円満なる人とし永遠の光明に導かんがために世に御出ましなされた。

 経に「如来無尽大悲を以って三界を哀れみ、光(ひろく)道教(=おしえのみち)を開き、群萌(ぐんもう)を救わんと欲し、恵むに真実の利を以ってす」と。恵むに真実の利とは如来の慈父の光明を獲得して聖き人と生まれ変わって現世を通じて永遠の生命を得(え)せしめんとの御慈悲なり。

 【私心(わたくしごころ)が感じられないこのお方の文章は、本当に心地よいです】

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2009年6月 5日 (金)

  大慈父

 【現代のお経とも言うべき言葉を書き残された、お坊さん(明治~大正)の文章を紹介しています】

 宇宙に唯一の大慈父とはいづれに在(まし)ますや。釈尊の本地【おられる場所の】一切聖人の【が】共に褒め称えて、止(やま)ざるところの如来にて、宇宙最高の淨(きよ)きところに在(ましま)して慈悲と威神(いじん)との光明を以って一切の人類の心の闇と悩みと罪との汚(けが)れより救霊の霊力を与えたもう最尊者に在ます。

 たとへば世界の一切の生物は太陽の光に依(よ)らざれば生存すること能(あた)わざる如(ごと)く、人の心霊は大慈父の慈愛の光明に由(よ)らざれば生存すること能(あた)わず。如来は心霊界の大日輪にして一切の人類を永恒(えいごう)の光明中におさめて聖(きよ)き生命に霊化し光明の裡(うち)に聖き人とし円満なる霊格としたまう大慈父にまします。

  経に『如来威神光明最尊第一にして諸仏の光明及ぶこと能(あた)わざる所なり』と。また『如来は光明あまねく十方世界を照らし念仏の衆生を摂取(せっしゅ)して捨て玉(たま)はず』とあり。唯一の慈父の光明の外(ほか)に衆生の心霊を救うものあることなし。

      ――――――――――――――――――――――――――――

 このお坊さんは道詠歌=昔なら和歌、現代なら短歌、をたくさん詠んでいます

 十二光のひとつ  無量光(むりょうこう)

 ☆ 量(はか)りなき三世(みよ)の佛(ほとけ)のかずゝゞは

                      ただみひとりのわかれなりけり

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2009年6月 6日 (土)

聖(きよ)き同胞

 【明治から大正にかけて活動されたお坊さんの文章を紹介しています。現代のお経ではないかと思っています】

 唯一の大慈父の光に由(よ)って、如来の聖子(みこ)たることを自覚し、人格も一変し来たりて観ずれば、一切の人類は本(もと)一人の慈父によりて、互いに同胞なる事を信ぜらる。然(しか)るに世の人々は、唯肉体ばかりを我と思うて、霊の大慈父在(まし)ますことを識(し)らぬ。故に全く同胞の真意が表れぬ。

 慈父の光によらず、自ら闇と悩みと罪とに埋もれたるものに対して同情に耐えぬ。願わくば同胞に大慈父の在(おわ)すことを信ぜしめ、大光明の中に共に光栄をうけ、共に霊福をわかち、永遠にまで大安寧(だいあんねい)を得んことを望み、相携(あいたずさ)えて光明の中に益々霊(きよ)きに向上せんことを祈るものである。

      ―――――――――――――――――――――――――――――

 米粒上人‥‥こんな呼ばれ方もされていたということです。歩きながら米粒に南無阿弥陀仏の名号を書いたりしたとか。

   道詠歌   十二光のひとつ 無碍光(むげこう)

       世の人の心を照らすみひかりは

               いかなるものもさへぬなりけり

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2009年6月 7日 (日)

三縁(さんえん)

 【明治から大正にかけて活動されたお坊さんの文章〔光明の生活より〕を紹介しています。現代のお経ではないかとひそかに思っています。】

 如来より衆生に対する光は三縁(さんえん)にて即ち恩寵である。恩寵=(光明)を被(こう)むる人の信仰に三心あり。近縁(ごんねん)は信。親縁(しんねん)は愛。増上縁(ぞうじょうえん)は欲、に対する関係にて。如来の知恵と慈悲と威力とが、衆生の三心の関係に三縁となるわけである。

   〔親〕                                〔子〕

      知恵‥‥‥‥近縁‥‥‥‥‥(形式)‥‥‥‥信念    

      慈悲‥‥‥‥親縁‥‥‥‥‥(内容)‥‥‥‥愛念    

      同化‥‥‥‥増上縁‥‥‥‥(活動)‥‥‥‥欲念 

 ☆至心(ししん)に深く信ず

 自身は罪悪の凡夫なれども如来無上の願力を以って必ず我を摂取したまうことを

 ☆至心に深く愛す

 如来無上の慈悲を以って衆生を愛したまふが故に我もまたすべてに超えて如来を愛楽(あいぎょう)したてまつる

 ☆至心に深く欲望す

 真善美の霊国に生まれて聖(きよ)き世継ぎとならんことをまたすべてと倶(とも)に安寧を得んことを

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仏心は大慈悲

 【現代のお経では、とひそかに思っているお坊さんの文章(光明の生活)を紹介しています。明治から大正にかけて活動されました】

 如来は大慈愛の化現(けげん)、全体愛にまします。経に仏心を観る者は亦(また)仏心を見る。仏心とは大慈悲是(これ)なりと。仏心の相好円満、無尽の光明全く愛ならざるはなし。

 故に大愛の権化たる仏(ほとけ)の相好を瞻(みあげ)るときは、満腔の慈愛にうたれて仏心の大慈悲なることも思わざるをえぬ。如来が全体愛を持って光明常に我らに注ぎて愛化し玉ふ。此の慈愛に育まれたる我らは、満腔の愛を以って如来を憶念せざるをえぬ。

       ―――――――――――――――――――――――――――

 【仏のはたらきを象徴した十二光佛を此のお坊さんは、歌にしています。その三つは前回、前々回で紹介していますので、後の九佛の歌を紹介しておきます】

 無對光(むたいこう)

    たくらぶるものこそなけれいと尊(たか)き

               わがみほとけの照らす光に

 炎王光 

    いかばかり罪の薪(たきぎ)はつもるとも

                焼きつくすなり弥陀の光は

 清浄光

    見るにつけ聞くにつけても染(そ)みやすき

                  心をきよき光とぞする

 歓喜光

    歓びの光にあはゞとことはに

                のどけき春の心地こそすれ

 知慧光

    みほとけのさとき光に照らしみよ

                みな実相のすがたなりけり

 不断光

    断(た)えなくば海水(わだつみ)さへもくみつくす

                  何ごとかそもならざらめやは

 難思光

    目にみえぬ思ひにもまた及ばぬは

                 光にふれし心なりけり

 無稱光(むしょうこう)

    うれしともまた楽しとも言の葉に

                 及ばぬ光にあふ心地かな

 超日月光

    月も日も及ばぬ人のこころまで

                 照らすほとけの光なりけり

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2009年6月 8日 (月)

親愛 その1

 【明治から大正にかけて活動されたお坊さんの文章を紹介しています。現代のお経ではないかと思っています】

 如来心光の三霊能の中に於いて親縁とは大なる愛、即ち大慈悲心と衆生の感情的信念との感応融合によりて、心情を美化するの霊能なり。即ち太陽の熱線に比例すべきものとす。

 この大慈悲の霊熱に感応する人の心情は平和、歓喜、妙楽、安穏、感佩(かんぱい)【ありがたく心に思うこと】等のすべての心理上の、最も優美なる高尚なる微妙(みみょう)なる甚深(じんしん)なる言うべからざる不可思議的感情の状態なり。

 例えば若し太陽の能力より起こす所の温熱なからんか【なかったとしたならば】、地上の有機物が生存し能(あた)わざると同じく、如来大慈悲の霊力に依らざれば、人の聖(きよ)き生命は生存すべきものにあらず。大なる愛の光は温和柔軟(おんわにゅうなん)にして、能(よ)く人の心霊を生息せしむ。新鮮なる活気は聖(きよ)きに呼吸せしめ、三昧の妙味に霊の生命は保存せらる。無限の妙楽と自然の歓喜とは如来の泉より湧く。 

 されば人は如何(いか)なる嶮(けわ)しき艱難(かんなん)の坂、困苦の峠に臨んでも、または失敗の谷に陥(お)ち、失意の抗(あな)に陥(おち)いるも、暖かなる慈愛の光は照らさぬ隅(くま)なく、平和と慰藉(いしゃ)【同情して慰める】とは何(いず)れの時にか与え給(たま)はざらむ。

 如来の慈愛の温熱(あたたかみ)は人をして、寒慄(みぶるい)せしむる畏怖(おそれ)にも憂悲苦悩(しんぱいなやみ)のなかにも、その心情(こころ)を融和(とか)して而(しか)して、安穏と歓喜とに美化せしむ。

 道詠歌

       朧夜(おぼろよ)のこゝとさやかに見へねども

                     月のかたにぞあくがるゝかな

                              次回へ続けます。

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2009年6月10日 (水)

親愛その2

 【現代のお経とも思われる文章を紹介しています。明治から大正にかけて活動されたお坊さんの言葉です。「光明の生活」より】【前回の続きです】

 麗らかなる春の和(やわらか)き温(あたたか)き霊気に霊酔せば、いつしか憤怒(いかり)、恨戻(うらみ)、嫉忌(ねたみ)、復讐(あたがえし)【ふくしゅう】、などのすべて害他的の悪しき動機は麻痺して、而(しか)して温和、同情、博愛、同喜などのすべての愛他の心情(こころ)起こるならむ。若し人、一たびこの大なる慈愛の浩気(こうき)に呼吸せる霊(きよ)き生活を経験せんか。この霊気を離れたる妖霧魔塵(ようむまじん)の萬丈(まんじょう)なる大気の生息は、実に耐えざる所なり。

 親縁(しんねん)とは如来の無限なる慈愛より、衆生の感情等の内容に加被(かび)し給(たま)う勢力(ちから)にして、人の方より如来を深く愛楽(あいぎょう)し奉(たてまつ)る信念に相応し、融合する本質なり。如来は大慈愛の親縁を以って衆生に加え給ひ、人は愛楽(あいぎょう)を以ってこれを念持し、衆生仏を憶念すれば仏もまた衆生を憶念し給ふ。

 如来を愛し上(たてまつ)れば、如来もまた衆生を愛寵(あいちょう)し給(たま)ふ。相愛親和の相互する所に、不可思議的神秘の融合を感ず。吾人が感情の信念に霊的愛慕し上(たてまつ)る如来の恩容(おんよう)を観じ奉(たてまつ)れば、いと麗しく妙(た)へに、いと勝(すぐ)れて美に威厳、殊(こと)に魏(たか)く相好独り勝(すぐ)れさせ給いて、信念のあるところに表現し給ふは何ぞや。

 如来の勝応身(しょうおうじん)が相好円満にして、いと美しきを示し給ふは、衆生に対する大なる愛の権化にましまさずや。是、大慈悲の表現にましまさずや。之に対する衆生の宗教衝動は霊的憧憬とし、神的恋愛とし之を葵仰(きこう)【仰ぎ敬う】し之を憶念して止(や)まず。斯(かゝ)るを感情の信念とす。

 如来はただ無縁の慈悲を以って遍(あまね)く法界に充満し、而して衆生の精神の内容なる心情に融合し、而(しか)して神秘的に融合し、神人合一の妙機に歓天喜地の感応を人の心情に与え給ひて、世に吹き荒(すさ)む八風の為にも心を動揺せず、いかなる境遇(ばあい)に臨んでも泰然として心広く、体肝(たいゆたか)に自然に幸福ならしむるは、人の情操に与えらるゝ恩寵なり。

 道詠歌

       こゝをぞとさやかに今は見へねども

                 月のかたにぞあくがれにける

                        次回へ

 

 

 

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2009年6月12日 (金)

親縁の中心は愛

 【明治から大正にかけて活動されたお坊さんの文章を紹介しています。現代のお経ではないでしょうか。・・・「光明の生活」より】

 宗教的関係の中心真髄は人の心情にありとせば、人の心情中に於いて全く我と彼とを同一視し、また生佛一体の観念たらしむるものはいかなるものぞ。そは人の心情の愛なるもの之なり。世に極端なる利己主義を主張するもの謂(おも)へらく、すべて生物は本能的に利己主義なる者、己(おのれ)を愛するを外(ほか)にして他を愛するは本能にあらずと。 

 吾人は謂(おも)ふ。そは極端なる利己主義にあらずや。人類には本能の発達の結果、一種不可思議の感情が、人の精神中心に伏在するにあらずや。其れは我と彼とを同一視し、自と他とをして異身同体の如きまでに、利害苦楽を共に感ぜしむるなり。そは何ぞや、人の心情の中心に在りて彼我一体ならしむる愛なるものこれなり。

 愛てふものは最も強き感情の糸をもて我と彼とを繋ぐ。普通はこの感情の最も強きものは親と子の間に、また恋人の間に於いて然りとす。生理的に最も相愛の親密なるは母と子の関係なり。之は本(もと)、母が子に於けるは自己より分出したるものなれば、子に対する同憂同喜は即ち愛てふ血肉を分けたる母と子の自然なり。

 また生理の自然に規定せられたる異性の親愛は最も親密なり。然るに肉体に於ける母子(おやこ)また恋人の間に於いて見るよりは、尚一層、幽微に深邃(しんすい)【おくがふかい】にして彼我の親密なる愛、存す。そは宗教的感情、神人の関係、即ち人が如来に対する霊の恋愛なるものに於いて発見すべし。    

                                   つづく。

 道詠歌

      のぼりゆくつかれも今は覚(おぼ)ほへじ

                  高ねの月を見まくほしさに

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2009年6月16日 (火)

親縁の中心は愛 その2

 【明治から大正にかけて活動されたお坊さんの文章を紹介しています】

 宗教的中心たる心情に神秘的神人合一、生佛感応し小我大我の冥合せるより来たりし霊愛の如きは、肉我の間に於いて見るよりはいかにそれ親密なるぞ。宗教中心真髄たる心情の心念に於いて最も神人の関係を親密にして、彼我一体の観念たらしむるものは愛なりとす。

 吾人無始より已来(このかた)無明に覆(おほ)われて、罪に滅びて空しく貧里(ひんり)に苦しみ生死にさまよひぬること、全く自性天真の父母に離れし故なれば、真に父母を恋念の情に勝(た)へず。また霊(きよ)き生命に入らんには、大なる愛の表れたる舎那円満(しゃなえんまん)の月の容(かお)を見まほしく、宛(さなが)ら恋人のそれに類比せり。肉我に迷ひて未だかって真の大我を自ら覚知せず、生死に流転して転々休止することなし。

 生死を超絶せる処の大我に、帰命融合を求めて絶対的の大安立(だいあんりゅう)を得んとす。此の親縁は如来の内容たる大なる慈愛によりて、衆生の感情を融合し感化し、人の肉血までを愛化し霊(きよ)き生活ならしむ。

 唯、知力の理論にのみ如来を認むるのみにしては、未だ活ける信仰にあらず。精神生活と雖(いへど)も此の肉血を離れて活動すべきにあらず。常に如来の慈愛を憶念して久しうするときは、此の血気をして悉(ことごと)く霊化し、而(しか)して麗しき生活を得せしむ。譬(たと)へば香器の中に香を容るゝ時、香器また燻ずるが如く。人、常に如来の大慈愛を憶念する時は、内容自ずから佛化せさるべけんや。此れを親縁と云ふ。

 道詠歌

       すゝみゆく道の遠さもおぼゝえじ

                 高峰(たかね)の月の見まくほしさに

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2009年6月24日 (水)

愛楽(あいぎょう)

 【明治から大正にかけて活動されたお坊さんの文章を紹介しています。現代のお経ではないかと思えてなりません】

 至心に深く愛楽(あいぎょう)す。如来無上の恩寵(おんちょう)をもて一切を愛護霊育(あいごれいいく)し給ふ。故に我らも至心に如来を愛慕し奉る。

 宗教上の精髄は感情にあり。いわゆる自己の罪悪を嫌忌(けんき)し、厭悪(えんお)し如来の恩寵を欽慕愛恋し、妙色相好を憧憬して寤寐(ごび)【起きている時も寝ているときも】に忘るる事、能(あた)はず、神霊の尊貌(みすがた)を思う時、自ずから新鮮の活気を生じ、生死の苦を厭(いと)ひ法性常楽(ほっしょうじょうらく)を欣(ねが)ひ神秘の内容に不可思議の妙容(みすがた)を感じ、主我の妄執を脱して真我の内に融合し罪悪垢穢(ざいあくくえ)の状態より解脱して、聖霊態に融入(ゆうにゅう)せんと欲する如きものは悉(ことごと)く感情にあり。

      ――――――――――――――――――――――――――――

 私見。

 このお坊さんは、宗教の精髄は感情にあり。とおっしゃっていますが、この言葉に接すると、不遜ですが‘わが意を得たり’といった気持ちになるのです。

 以前、「なぜ人を殺してはいけないか」といった問いが、マスコミで話題になり、今でも若い人たちはこの問題について、しばしば取り上げていて、さまざまな意見が出されています。

 そして、その意見に接すると本当に十人十色、さまざまな意見が飛び交い、ひとつの答えを導き出すことの難しさを感じています。

 なぜいろんな答えが、返ってくるのでしょう。それは‘理屈’で答えを出そうとしているからだと思うのです。言い換えると、倫理、あるいは道徳、といった観点から見ようとしているから。

 社会規範として、考えようとすると、個人個人で、育った環境が違い、体験を通しての知識も異なり、また性格や能力にも左右されるので、答えがひとつにまとめられない、ということではないでしょうか。

 なぜ人々は‘感情’をおろそかにするのでしょう。忘れているのでしょう。

 たぶん現代人は利口になりすぎたのです。

 人の感情には、他を思いやる心‘やさしさ’があり、また、自分を苦しめたあいつは憎い、といった気持ちや、そこから起こる残酷な心があります。

 そして、人を殺すという行為は、その残酷な心がするのであり、他者を思いやる心‘良心’がするのではない、と言う事は誰もが承知しているのです。

 でもそこのところを見落としている、という事に気づいてほしいのです。

 善と悪。

 神や仏は人の好ましいほうの心の象徴、煩悩あるいは悪魔は人の好ましくないほうの心の象徴。

 となれば、人を殺すという行為は、好ましくない心の為せる事なので、悪いことである、と言って良いかと思います。

 哲学される人には不満でしょうけど。

 また冒頭に紹介したお坊さんの「宗教上の精髄は感情にあり」という言葉は、もっともっと広い意味で仰られているのでしょうが、日ごろ‘感情’について思うことがあり、述べてみたくなりました。

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